第167号コラム: 林 紘一郎 理事(情報セキュリティ大学院大学 学長)
題:「引き際の美学と科学」

「みのもんたの朝ズバッ!」の制作会社の者だという女性から電話が来て、「先生が書かれた『引き際の科学』についてお聞きしたい」と言われたのは、K首相が退陣するのかしないのかが、ヘッドラインを飾っていた6月下旬のことである。
最初の電話は私が不在で秘書が受けたため、コール・バックする前にネット検索をしてみた。確かに「引き際を科学する」という駄文を書いた記憶はあるが、それがいつだったのか、何を訴求したものだったのかが、心許なかったからである。紛れもない、老化の証拠であろう。

「引き際and 科学」で検索してみると、驚いたことに、以下の私の論稿がトップに登場した。http://jp.fujitsu.com/group/fri/report/economic-review/200401/page2.html (原文は、『Economic Review』2004年1月号、富士通総研)。なるほど、番組制作会社が注目するはずである。
しかし私は学者になると決意した際に、自らの発表の機会にプライオリティを設けていた。つまり学術論文という紙の媒体が第一位で、次いで学術論文とは言いがたいが、それに匹敵する訴求力を持つ紙の論文。第三位が上記のいずれかを電子的に伝達するもので、電波という媒体は対象外なのである。
コール・バックに対して、件(くだん)の女性はあれこれ尋ねるものの、私が期待していたほど核心を突いてこない。多分自分で探し当てたのではなく、上司に言われてコンタクトしただけなのだろう。上記のプライオリティは低いし、加えて私はK首相を信頼していない(はじめから信頼していないのではなく、震災直後のうつ状態の改善のため、大量の薬剤を投与され人格が変わったと、素人なりに見立てている)。
どこにもテレビ出演を促す材料はないので、会話は弾まずに終わった。

テレビはどうでも良いから、この際旧稿が正しかったのかどうかを、検証してみよう。論点を私なりに再整理すると、以下のようになる。
有名人の出処進退は、「淡々派」と「居直り派」に二分されている。
従来はこれを「科学する」という発想がなく、「美学」で論じてきたため、「淡々派」が潔く、「居直り派」が老醜とされることが多かった(しかし、実際は「居直り派」に引退を強制する道が無いのは、現在の状況と同じである)。
「仮説を立てて検証する」という科学の方法論を取れば、事態がもっと違って見えたり、要改善点が明らかになるのではないか。
検証すべき仮説として、以下の4つを提案する。
仮説1:自分の引退は自分で決められる
仮説2:引退後は「タダの人」になる
仮説3:年寄りには知恵があり、若者は年寄りの首を切るべきではない
仮説4:無収入・肩書きなしでは尊敬されない

仮説1.については、以下のような諸点が気になる。酔っ払いで警察の世話になる際に、「俺は酔っている」と認める人は少ない。出処進退を問われている人も同様で、自分で判断しない方が良い。日本人は「監査」という言葉が嫌いのようだが、ゴルフのレッスンを受けるぐらいの軽い気持ちで、日頃から助言を仰げる人を見つけておくべきだ。政治家は選挙の洗礼を受けるのだから、自分で決めるべきだと言うが、世間から評価される「引き際」は、ほとんど助言に基づくものである。以上から、仮説1.は棄却されるかと思う。

仮説2.は、「サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙に落ちればタダの人」ということわざの真偽を問うものである。これは二重の意味で、誤りである。まず議員である間において、「議員≠タダの人」と考えていること自体、差別意識丸出しである。次にタダの人を蔑視しているという意味で、選挙民を見下している。よって、この仮説を認めるような社会を作るべきでない。

仮説3.は、東アジアに根強い「長幼の序」を反映したもので、評価すべきとの見方もあろう。しかしそれは、人生の先輩に対しての尊敬を意味しており、組織の長としての資質と一致するものではない。現代日本の企業は、エスタブリッシュメントから新興ベンチャーへの過渡期にあり、前者には「長幼の序」が有効かもしれないが、後者には不適である。三木谷浩史氏の経団連脱退、南部智子氏の早すぎる社長辞任こそが、後者の必要条件である。この仮説も、早晩古くなると思うべきであろう。

以上の仮説はすべて、仮説4.に収斂するのかもしれない。日本はいつまでも「肩書き社会」で、名刺に肩書きがないと不利益を蒙る。この仮説が消え去るようにならないと、老人が豊かに暮らすことはできないだろう。私は一方で「居直り派」に対して「美しくない」というだけでなく、「科学的根拠がない」と言いたいのだが、現実は「(科学的であろうがなかろうが)根拠が大有り」である。尊敬する名和小太郎氏から、「出版社から奥付けに書く肩書きが要ると言われた」との要請を受けて、「特別研究員」の肩書きを差し上げている。しかし、「文筆家」で十分通用する社会になって欲しいと思うのは、私だけではあるまい。

と、ここら当たりまでは冷静に分析してきたが、だんだん心細くなってきた。というのも、旧稿を書いた2004年のころの私は、未だ活動エネルギーがみなぎっていたが、そろそろ「引き際」を考える今日この頃だからである。私の恩師の一人とも呼べる方が「あなたの原稿(ここで旧稿と呼んだもの)を読んで引退を決めたよ」と言われたのだから、今度は私の番であろう。仮説4.を棄却する作業は、私自身の実践にかかっているのかもしれない。

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