第19号コラム:安冨 潔 副会長(慶應義塾大学大学院法務研究科 学部教授、弁護士)
題:「ユビキタス・ネットワーク社会におけるデジタル・フォレンジックへの期待」
わが国は,明治維新を契機として,農業社会から工業社会へと移行し,第2次世界大戦の終戦を機に,さらに大量生産型の工業社会を急速に発展させ,米国に次ぐ経済大国に成長した。こうした状況にあって,1960年代に始まったコンピュータや通信技術の急速な発展とともに世界規模で進行するIT(情報技術)革命は,18世紀に英国で始まった産業革命に匹敵する歴史的大転換を社会にもたらした。産業革命では,蒸気機関の発明を発端とする動力技術の進歩が世界を農業社会から工業社会に移行させ,個人,企業,国家の社会経済活動のあり方を一変させたが,インターネットを中心とする情報技術の進歩は,情報流通の費用と時間を劇的に低下させ,髙密度の情報の流通を容易にすることにより,人と人との関係,人と組織との関係,人と社会との関係を1変させることとなった。そして,今後,世界は知識の相互連鎖的な進化により高度な付加価値が生み出される知識創発型社会に急速に移行していくと考えられる。そうしたなかでわが国が引き続き経済的に繁栄し,国民全体の更に豊かな生活を実現するためには,情報と知識が付加価値の源泉となる新しい社会にふさわしい法制度や情報通信インフラなどの国家基盤を早急に確立する必要がある。
2000年,情報通信技術の利活用により世界的規模で生じている急激かつ大幅な社会経済構造の変化に適確に対応することの緊要性にかんがみ,高度情報通信ネットワーク社会の形成に関する施策を迅速かつ重点的に推進することを目的として,高度情報通信ネットワーク社会形成基本法(平成12年12月6日法律第144号)が制定された。
そして,2001年1月に策定された「e-Japan戦略」では,「2005年までに世界最先端のIT国家となる」という目標のもとで,IT戦略本部を中心に政府として取り組んできたことで,基盤整備を中心に一応の目標は達成されたと評価できる。しかし,高度情報通信社会においては,いっそうICT(情報通信技術)の発展が課題とされており,さらなる目標達成のために,「e-Japan戦略Ⅱ」を通してICTの利活用に向けて着実に推進されている。もっとも,国民が高度情報通信ネットワーク社会の利便性を十分に享受するためには,安心してインターネット等を利活用できる環境を構築することが必要である。このため,情報通信ネットワークや情報システムについて,その安全性・信頼性及び多様性を確保するとともに,適切な運用管理が図られなければならない。ここに情報セキュリティの確保が求められる理由がある。
他方,今後の社会において解決すべき課題は多く,社会基盤として定着しつつあるICTの利活用がその課題解決の「切り札」となることを期待し,「いつでも,どこでも,何でも,誰でも」ICTの利活用ができる社会,いわゆるユビキタス(ubiquitous)・ネットワーク社会の実現に向けた「u-Japan政策」が策定され,2010年を目標に民産学官の有機的連携をもった取り組みがなされている。しかし,ICTの利活用による利便性の反面,多くの新たな問題も発生するものと予想される。ユビキタス・ネットワーク社会が到来すれば,利用者が享受しうる利便性が飛躍的に増大する一方で,これまで以上に情報主体の権利利益が侵害される事件が発生しうることは想像に難くない。ICTの恩恵による「光」の部分を享受するためには,「陰」の部分を迅速かつ適正に抑制することが求められる。
こうした状況にあって,捜査機関だけではなく,企業・組織体にとっても,自己の活動の正当性を証明する手段として,またセキュリティ確保の証明としてデジタル・フォレンジックが用いられることが期待される。