第22号コラム:林 紘一郎 理事(情報セキュリティ大学院大学 副学長)
題:「IDのない『人』も『もの』も存在しない?」

NTTの後輩である曽根原登さん(現国立情報学研究所教授)のご配慮があって、画像電子学会という畑違いの学会に呼んでいただいたのは、2003年3月のことであった。
テーマは安田浩さん(当時は東京大学、現東京電機大学教授)が提唱し、私も参画していたcDIf(コンテンツIDフォーラム)の目指す「情報の円滑な流通をサポートするシステム」であった。そして何より沖縄という開催場所が、私には魅力的であった。台湾生まれの私も、それまで1度も行ったことがなかったからである。

会議は安田さんの「全員コンテンツ時代」が先にあり、次いで私が、コンテンツIDを著作権制度の中に位置づけると、無方式主義(審査や登録などの一切の手続きなしに権利が発生する)を微修正して、任意の方式主義を導入することに近づく旨の提起を行なった。この発表資料は私の名前で検索していただくと、なぜか意外に上位にランクされている。(「柔らかな著作権制度を目指して」http://www.rieti.go.jp/jp/events/03042101/pdf/hayashi.pdf)

この発想は年々進化して、現在は「デジタルはベルヌを越える:無方式から自己登録へ」(田中・林編著『著作権保護期間:延長は文化を振興するか?』勁草書房、2008年所収)という論文に結実している。この点だけから見ても、この沖縄の学会は意義深いものであった。

さて2人のプレゼンが終わった後で、質疑応答に入ったが、そこで安田さんが提起した疑問は私を(そして私自身の勝手な推量に拠れば、聴衆の大部分を)驚かせるものだった。彼は「林説では登録するもしないも自由だというが、デジタル社会ではIDのないものは存在しないと同じではないか。利便を享受したければ、ID登録を義務づけるべきだ」というのであった。

論争の常として、私は自説を擁護しなければならなくなったので、以下のように反論した。
① 近代著作権制度は、国王の特権であった出版特許を廃止し、事業者の権利(copyright)を著作者の権利(author’s right)に転換したものである。これは市民革命の動き等と連動しており、検閲を防ぐ意味からも、方式主義を採ることは考えられなかった。
② こうした歴史的背景を別にしても、著作物の登録を義務づけると、言論の自由を萎縮させるおそれもあるので、現代においても無方式主義は継続されるべきである。
③ しかしデジタルの世界においては、コピー・ペーストがいとも簡単にでき、一瞬のうちに世界中に流布されて、取り戻すことも難しいから、著作権を守るために権利者自身が何らかのアクセス制御の方策を講ずることが望ましい。
④ ただしアクセス制御が行き過ぎると使い勝手が悪くなるだけでなく、『フェア・ユース』などの利用者の自由度を制約することになるので、DRMなどの技術の導入にも適用限界があると考えられる。
⑤ このような中で私が提案しているⓓマークは、著作者の自由意思による任意登録制度であり、アクセス制御よりも自由利用の範囲を広げようとする点で、上記の主旨に合うものと考えている。
(ⓓマークについては次のURLを参照。http://lab.iisec.ac.jp/~hayashi/991018.pdf)
⑥ これを安田説のように「デジタルになったら登録してIDをもらわなければ、この世に存在するものとして認めない」というように割り切れるかというと、2つの点から無理ではないか。1つは上記の歴史的背景であり、どのような言論であれ、言論それ自体は自由活発に流通でき得るものでなければならないことである。コンテンツIDフォーラムの設立目的自体も、その点にあるのではないか。
⑦ 2つ目のより根源的な問題は、現に存在する著作物の大部分はアナログであり、これを一定期間内にすべてデジタル化することはできない。現行法もアナログを前提にできている。こうした現実を踏まえれば、「IDのない著作物は存在しないに等しい」というのは暴論ではないか。
このときの討論は、これ以上進展を見なかった。私自身は技術者と法学者の発想の違いを感じ、日頃「あるべき論」を主張することの多い私も、やはり根源的には文系の発想を出ることができないのかという気もしていた。ただ同時に、安田さんがそれ以上追求しなかったから逃げ切れたが、「著作物がすべてデジタルになった場合にも、無方式主義を続けることができるのか」という基本命題を突きつけられたら、答えを持っていないことを薄々(そして渋々)自覚していた。

時は巡り、2007年のフォレンジック・コミュニティの会合において、私は基調講演のご依頼をいただいた。理事の一翼を汚しながら、これといった貢献もしていないので、せめてもの恩返しにとお受けしたが、何をテーマにしようか、いささか迷いがあった。

その迷いの過程で、次のような疑問が頭をよぎった。フォレンジックは通常「証跡管理」と呼ばれるように、何らかのインシデントの発生後にその証拠となるデータを解析し、原因の究明と再発防止に役立てるものである。

しかし仮に安田説のように、デジタルの世界ではIDをもらえない「人」や「もの」(法学では「物」という漢字は有体物に対してのみ使い、無体物をさす場合は「もの」という)が存在しないとすれば、証跡となる有力なキーワードはこれらのIDであろうから、発生後の措置と発生前の処理とは、IDを介して一貫することになるのではないか?

逆の面からいえば、フォレンジックが事後的な対処法であることに変わりがないとしても、インシデント発生前の処理がIDを介して行なわれている限り、「存在証明」は既にその過程で終わっているのではないか?あるいは更に換言すれば、IDがないと存在し得ないデジタル社会では、正常処理も異常処理も更にはその事故処理も、すべてを含めてIDをキーに処理・検索・追跡がなされ、安田説の予言が現実のものになるのではないか?

こうして生まれた新しい疑問に、直ちに答えを出すことはできない。しかし5年前に私自身が一旦否定したはずの安田説が、依然として仮説として生き続けていることは認めざるを得ない。フォレンジック・コミュニティの講演では、こうしてなお悩んでいる私自身を、そのまま正直にさらけ出すことしかできなかった。(この記録は、デジタル・フォレンジック研究会のホームページから購入することができます。)

さて、私たちの日常生活のいくつかの例を見ておこう。2009年には株券がすべて電子化されるので、タンスの中に入っている株券は来年以降は「存在しない」。そのため慌てて手続きする人が後を絶たない。私自身も、18年前に死んだ父親が持っていた株券を、急いで処理している。
2011年中には、地上波テレビ放送がすべてデジタル化されるので、アナログのテレビは買い換えるか、アダプターを付けるかしなければ、テレビ受像機としては「存在しない」。
通信のネットワークがすべてIP化され、やがてアナログ機器は「存在しない」ことになるのであろう。

これらはすべて「物」あるいは「もの」の世界なので、割り切りさえすれば済むように思われる。では「人」の場合はどうだろうか。私たち学者の世界では、科学研究費などの申請がすべて電子化され、このIDを忘れた人は少なくとも申請の世界では「存在しない」。住民基本カードが電子化され、常時携行が義務付けられれば、忘れた人はその時点では「存在しない」に等しい。
忘れた場合のリカバリーは、さほど難しいことではないだろう。しかし誤記された、あるいは誤って抹消された人の場合はどうだろうか?パスワードでさえ「なりすまし」の価値が高いため、闇の市場が存在しているという。本人が気づかない期間が長いとか、違法行為がなかなか発覚しないという状況下では、ID窃盗には慎重な対策が望まれる。

そして、対策がデジタル的に成り立つことは稀であろう。どうやら私たちは、アナログとデジタの「ほど良い関係」を模索せざるを得ないように思われるが、このような発想自体が、「アナログ世代」の「遅れた」発想なのだろうか。