第23号コラム:町村 泰貴 理事(北海道大学大学院 法学研究科 教授)
題:「アメリカ型司法とディスカバリ」
アメリカは訴訟社会だといわれ、実際に民事訴訟が提起される件数は非常に多い。またその担い手となる弁護士の数も非常に多い。
日本では、アメリカのような訴訟社会になってはならないと考えている人が多い。そこで、アメリカに特徴的な訴訟制度、あるいは実体法も含めた法制度を日本に導入しようとすると、決まって「訴訟社会になる」という批判が出てくる。
日本で製造物責任立法が進められたときも、産業界を中心にアメリカのような訴訟社会
になってはならないという大合唱が起こった。
製造物責任はそれでも立法化されたが、平成8年の現行民事訴訟法立法過程で検討対象となったディスカバリは全く日の目を見ず、クラスアクションは検討対象にも上らなかった。結局、ヨーロッパタイプの提訴前証拠収集処分や、同じくヨーロッパタイプの団体訴訟制度が導入され、アメリカ型の手続は導入されなかった。
しかしながら、アメリカ型の手続に対するこのような反応は、行きすぎたものというべきである。
アメリカのような訴訟社会は、様々な要素が組み合わさって成立する。その主な要素は、まず弁護士の数の多さであり、また着手金ゼロで成功報酬のみを受け取るコンティンジェント・フィー、そして実損害の何倍もの賠償を得られる懲罰損害賠償制度である。これらによって、原告側弁護士が多数の訴え提起を提起し、そのいくつかについて勝訴することで経済的にペイするとともに、依頼人の側も自らの権利利益を訴訟によって実現しようとするインセンティブを得られる。訴えを提起すれば、ディスカバリにより自らに有利な事実が判明することも期待できるし、陪審制による結果の不透明さも相まって、訴え提起することによる期待値が全体に高まるのである。
加えて、肥大化したディスカバリやコストの高い陪審制トライアルがあることにより、訴えを提起してもトライアルに行くことなく和解により解決するというインセンティブが生まれる。かくして、トライアルで争えば敗訴する可能性の高い訴えでも、和解による利益の確保が見込めるということで、さらに訴え提起のインセンティブが高まる。
クラスアクションも、もともと少額多数被害の回復や、公民権などの拡散利益の回復に適した制度であり、従って一つ一つの事件では訴訟による解決がペイしないという場合でも、多数の被害回復が集合化されることによって訴え提起が可能になる。勝訴すれば巨額な賠償が得られるので、上記の要素と組み合わされて訴え提起のインセンティブが高くなる。
こうした諸要素が組み合わされて、初めて訴訟社会と呼ばれるような状態が成立し得たのである。例えばクラスアクションと同様の制度を今導入したところで、その他の諸要素が伴わないのであれば、濫訴がはびこる訴訟社会となるような条件が欠けている。ディスカバリについても同様である。
反対に、クラスアクションが持つ重要な機能、すなわち不当な収益の剥奪という機能が実現できず、結果的に不当な行為のやり得という、極めて反倫理的な社会にとどまってしまっている。またディスカバリがないために、不利な証拠を開示する必要がなく、真実に適った裁判が実現できず、いわばウソつきが得をして正直者が馬鹿を見る社会になってしまっている。アメリカのような訴訟社会を恐れる言説の後ろには、こうした反倫理的な行動を正当化している意識が透けて見えるのである。
さて、デジタル・フォレンジック技術は、民事訴訟ではe-Discoveryにおいて活用されている。有利な証拠も不利な証拠も互いに見せ合った上で、フェアに正否を決しようという制度の、いわば技術的インフラともいうべき存在である。正直者が馬鹿を見ない制度に必要な技術であり、正直さの裏付け技術といってもよい。
我が日本の訴訟制度にも、こうした正直さの裏付け技術が必要となる時代が来ることを、願ってやまないのである。