第108号コラム:辻井 重男 会長(中央大学 研究開発機構 教授、IDF会長)
題:「韓国は如何にして電子行政世界最先進国家となりし乎――韓国訪問記」

Ⅰ 韓国情勢
 国連のサイト「UNE-Government Development Knowledge Database」では、各国の電子政府の準備度を調査し、ランキングを発表している。それによれば、1位は韓国、2位米国、3位カナダ、以下、ヨーロッパ諸国が続き、我が日本は17位である。
 様々な項目ごとに、準備度を設けて、点数をつけているが、そのような採点法で良いのか、私には疑問に思われる。電子行政は、全体最適化の構想を定めた上で進めることが必須である。各省庁や自治体などの組織毎の最適化を積み重ねても、理想的な姿には近づけない。多くの国は、電子行政の到達点へ向けてのプロセスにあるが、全体最適化のプロセスにあるのか、個別最適化を積み重ねるプロセスにあるのか、同じ点数でも、意味が違ってくるのではないだろうか。
さて、その全体最適化を進めた、世界最先進国、韓国を本年(2010年)4月21日から24日の4日間、電子行政のヨン様こと、廉 宗淳氏の案内で、一行5名が訪問した。
 自民党政権の頃は、野田聖子元IT担当大臣、最近では、廉氏の案内で、原口総務大臣も韓国を訪れている。我々は、日本で言えば、東京都港区役所に相当するソウル市の江南区役所も訪れたが、米国を含め60カ国からの訪問を受けたとのことである。
 日本の国会図書館に当たる中央図書館の敷地には、4階建てのデジタル図書館が建てられ、1億冊が収容されているそうである。著作権の問題があるから、館外への貸し出しはしていないが、館内では、拡大、手めくりなどが自由に出来る大画面で、多数の人が読書を楽しんでいた。
何故、韓国が電子行政で世界トップに躍進したのか、私の俄か韓国出羽守の目で観たところ、次のような理由・動機によるものと思われる。

1 歴史的経緯による国民番号の普及
2 危機感―1997年の経済危機感
3 大統領制とノムヒョン大統領のIT志向
4 人間の本性に根ざした巧妙な手法――経済的インセンティブの付与
5 上昇機運と精神構造
これらについて、説明を加えておこう。

1 歴史的経緯による国民番号の普及
 北朝鮮との緊張関係から、国民番号制度が普及したとは聞いていたが、さらに遡れば、朝鮮総督府による日本の植民地政策によるものだと聞いて、自責の念が湧いた。しかし、現在では、そうした歴史を乗り越えて、性別、生年月日などを含む13桁の番号が普及し、プライバシーに関する深刻な問題は起きていないとのことである。

2 1997年の経済危機は相当深刻だったようである。IMFから各自治体の財政状況を出せと要請されても、データが統一整備されていなかったことも、電子行政促進へのインセンティブになったようである。

3 大統領制による意思決定と全体最適化
 電子行政に限らず、一般に社会システムは、全体最適化されたインフラの上に、個性に富む個別最適化が進められるのが望ましい姿であると考えられる。インフラの全体最適化は、ある程度、独裁的に進めないと難しい。韓国の大統領は、各省のトップから課長クラスまでの人事権を持っているそうである。2003年、大統領に就任したノムヒョン大統領は、電子行政を最重要の国家的課題の一つと位置づけ、電子行政推進に反対する官僚を呼んで説得し、嫌なら辞任をと迫るという場面もあったという。偶々、ノムヒョン大統領がIT好きだったという偶然も、電子行政の展開に幸いした。現在の李大統領は建設業界出身で、IT嗜好ではないようだから、2003年から2008年の大統領が李氏であったら、どうなっていたか分からない。2002年の大統領選では、最終日の午前中、反対党(ハンナラ党)の候補有利との出口調査が伝わるや、若者達が、ネットで連絡しあい、ノムヒョン大統領を誕生させたと言われている。ネットが政治を左右する時代である。   日本の官庁・自治体のように、分権的でボトムアップな意思決定システムでは、電子行政の普及は難しい。トップ
ダウンで計画立案・実施体制を整える必要が痛感される。
韓国では、公的個人認証制度が国民の約半数に普及している。我が国では、e-Taxを中心に百数十万に届く程度である。公的個人認証制度が非効率であるという主張も聞かれるが、韓国を見ても、公的個人認証制度は国民的基盤として普及させるべきであることが分かる。我が国の公的個人認証制度は、署名から認証への用途拡大のための法律改正や官民連携の推進、利用媒体の拡大などを進める必要はあるが、それと同時に、電子行政の全体最適化の中でこそ有効性が発揮される制度であることも認識しておかねばならない。

4 人間の本性に根ざした巧妙な手法――利便性と経済的インセンティブの付与
 ソウルのあるレストランで食事をし、支払う段になった。そのレストランと税務署はネットで結ばれており、客は領収書を税務署へ提出すれば、最大3割の控除があるという。レストランにとってメリットはないが、客は、電子化された店を選ぶから、レストランも電子化への対応をせざるを得ない。レストランに限らず、このようなシステムが商業全般に普及しているそうである。かくして、民は潤い、国は増収という社会システム(同行した近藤則子氏の表現)が出来ている。この制度を考えた、韓国国税庁の○氏には、本日(5月19日)のシンポジウムで講演して頂く予定である。
税金の申告も申請型からプッシュ型になっており、利便性の高いシステムとなっている。

5 上昇機運と精神構造
 ソウルと東京の中心街を歩いていて感ずることは、日本は様々な課題を抱えつつも、成熟しているということである。韓国は、上昇機運の中で、タイミング良く電子化を進めているということなのだろう。
私のように、高度成長と共に歩んできた者からいえば、もう一度、電子行政を含む国家戦略を真剣に考え、皆で立ち上がろうではないかと言いたいところだが、ここから先は、どこかで聞いた話になるから止めておこう。

Ⅱ プライバシーと自己情報管理の両立―韓国の行政安全部を訪問して得たアイデア

 韓国では、我が国ほど、国民番号制度に厳しい反応はないから、各省庁が個人個人の番号を知った上で、行政情報共同利用センターがそれらを集めて、一人一人にプッシュ型のサービスを普及させているようである。
日本では、例えば、2007年の新潟地震に際して、柏崎市では、住民基本台帳、土地家屋台帳にそれぞれ何百という項目があるが、同一人に対して、一つとして共通する項目がなかったので、被害者のための生活支援データベースを立ち上げるのに困ったそうである。京都大学防災研の林春男教授等は柏崎市等と連携して、GIS情報を共通キーとしてデータベースを立ち上げ、被害者救済に当たったという。
 日本では、このように行政によるプライバシー侵害の議論がより厳しいが、年金騒ぎからも分かるように、自己情報がどのように扱われているかに対する国民の不安解消や災害時への対策も必要である。国民番号は、総背番号などと呼ばれて評判が悪かったが、行政の効率化だけのためでなく、国民1人1人の自己情報管理番号でもあるのだ。
話は広がるが、筆者は、情報セキュリティの理念を、自由の拡大(利便性、効率性の向上など)、安全性の向上、プライバシー保護という互いに相反しがちな3つの価値を、可能な限り高度に均衡させること、即ち、3つの止揚を図ることと考えている。情報セキュリティとは、技術、管理経営・市場、法制度、人間学(倫理学、心理学、行動論)などを強連結・密結合させ協働させて、この三止揚を図ることであると定義している。
 問題は、この三止揚をどの範囲で、どのレベルで図るかということである。互いに矛盾・相克すると言っても、狭い範囲で考えるからそうなるのであって、全体最適化を進める中で、透明性を上げ、行政の効率性・国民の利便性、安全性、プライバシー保護の達成度を同時に向上させることが可能となる場合も多い。
 安全と不安は、次元を異にする概念であって、互いに比例するものではない。交通事故のように、毎年、数千人の死者が出ていても、我々は余り不安を感ぜずに車を利用する。数年前、住民基本台帳ネットワーク制度の導入を巡って、某評論家と総務大臣(当時)が絶対安全か否かで論争したが、絶対安全はあり得ない。交通社会では、明治36年の事故1件発生以来、人々は徐々に慣れてきたが、電子社会は急激に到来し、目に見えない世界であるだけに成熟していないので、安全性のレベルより、不安のレベルが高いのだろう。
 さて、電子行政には、上に述べたように、2つの不安がある。一つはプライバシー侵害への不安であり、他の一つは、年金、医療、介護、福祉などの自己情報が適正に処理されているか、地震などの災害時に、漏れなく、救援の手が差し伸べられるのだろうかと言った不安であり、これらを同時に解決する必要がある。後者の不安解消には、行政が、国民番号の有効活用が出来ればよいが、これにはプライバシーの問題が横たわる。プライバシー侵害に対しては、国民と行政の信頼関係の改善、監視のための第三者機関の設置、デジタル・フォレンジックの普及などの対策が考えられるが、一朝一夕には進まない。
 そこで、筆者が、韓国の行政安全部で行政情報共同利用センターに関する説明を受けた夜、寝付かれぬまま
に、上記の二つの不安を同時に解消するための一つのアイデアを得た。各省庁や部署が、それぞれ担当する範囲で、個人情報を掌握することは当然である。しかし、他の省庁や部署が、知る必要はない。また、各省庁・部署からの情報を集めて、各個人に情報提供する行政情報共同利用センターも、個人情報のすべてを知る必要はないだろう。(韓国の場合、行政情報共同利用センターはそれを知ることが出来るシステムになっているようだが)、加算や乗算、作表などを、個人情報が暗号化された状態のまま、加算や乗算、作表などが出来るような方式を考えてはどうだろうか。個人は、それぞれ、各省庁・部署や自治体対応の公開鍵を設定し、自分の手元で、それぞれの秘密鍵で復号し、全情報を知るという仕組みにしてはと考えた次第である。面倒なようだが、ソフトがやってくれるから、個人に負担がかかるわけではない。
 似たような方法は、情報の所有から利用へというクラウド化が進む中で、今後、益々必要となる。暗号化された
まま処理をする方式は、国際学会でも提案されているが、一つの暗号方式で実現しようとすると、非現実的な、メモリー・処理時間を要するのが現状である。私の考えているのは、一つの方式で処理するのではなく、加算・減算や乗算・除算ごとに、適切な公開鍵方式を利用し、それらを組み合わせるという方式である。今後、具体的に詰めてみたい。上手くいったら、プライバシー保護と自己情報管理権を同時に手にすることになる。上手くいったら、拍手御喝采を。

Ⅲ 終わりに
 電子行政は、学問的見地から総合科学の一つと捉えると共に、現代人に求められる教養、人材育成についても考えさせられる広い課題である。これに関する私見は、下記の拙文に述べておいたので、参照頂ければ幸いである。

 辻井重男:電子行政、総合科学、現代社会の教養、人材育成―情報セキュリティ視点からの起承転結―、情報処理学会50周年記念特集号、VOL.50,NO.5,2010年5月号

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