第124号コラム:林 紘一郎 理事(情報セキュリティ大学院大学 学長)
題:「デジタル完璧主義の敗北:国民IDと「消えた老人」」

 去る7月30日に、国際公共政策研究センターの主催で、「共通番号制度の早期実現に向けて」というシンポジウムがあったので、出かけてみた。テーマに関心があったことはもちろんだが、「(ANAホテルという高そうな場所にもかかわらず)無料だが事前登録。先着200名まで」という設定にも、興味をそそられたからである。
その場で、違和感を持った点は3点。1つは、演壇に上がったパネリスト等6名の全員が推進派であったこと。2つ目は、事前に人物調査をしたためか(先着順と言いつつも、参加証が送られてきたのは直前であった)、フロアの参加者からも反対意見が全く出なかったこと。3つ目は、それらと連動しているのであろうが、入場時に簡易な名札を渡され、トイレに行って再入場する際にも首から提げるよう求められたこと。
 確かにパネリスト(特に政治家)からは、感情的な報道で「納税者番号」などを葬り去った(一部)マスメディアに対して、痛烈な(これまたやや感情的な)批判があった。また、「国民ID」という俗称を避けて、「共通番号制度」と称していることにも、摩擦を避けてまずは提言を聞いてもらいたい、という主催者の気持ちが感じられた。その意味では、会場のマネジメントは、良く練り上げられたものであったのかもしれない。

 しかし、このような「身内の会合」的な設定では「しゃんしゃん大会」になってしまう恐れがある。そこでパネリストの1人である岩村充氏には、批判派の役割を演じるよう予め割り振りがあったらしい。ところが(あるいは、それ故にこそ?)、私は導入派よりも彼の発言の方に、共感を覚えた。
 岩村さんは、共通番号の導入は自然の流れだろうと言う。にもかかわらず同氏が、国民総背番号制反対の署名をしたことが主催者の田中直毅氏らを驚かせ、パネリストとしての要請につながったようである。彼の論拠は、「国民が残らず番号を振られ、細かいことまで管理可能な状況は、具体的には言えないが何となく気持ちが悪い」からだと言う。同氏の日ごろの舌鋒の鋭さを知っている者からすれば、何とも感性的な表現ではある。
 しかし、それにもかかわらず私が共感を覚えたのは、同じような論争を経験していたからであった。私は1999年に発表したdマーク(コピライトの©マークのデジタル版)の提唱で、画像関係の学会にも呼ばれることになった。安田浩さんが主宰する「コンテンツIDフォーラム」に参加していたことも、手伝っていたかもしれない。
 その画像電子学会の2003年春の大会(沖縄)で、安田さんと間で思わぬ論争になった。それぞれが発表した後のディスカッションで、彼が「デジタル時代が到来すると、IDが付いていないものは、存在しないと同じ」と言い出したからである。私は黙っていられなくなって、「技術者はそのように割り切れるかもしれないが、法律家は紛争がある限りなるべく公平に裁かなければならない。そのときにIDをもらっていないという理由だけで、裁判を受ける資格が無いと門前払いをすることは、法律家にはできない」と反論した。
 私も、「すべての著作物がID管理される」システムを提唱しているわけだから、心情的には安田さんの言うことは良く分かる。法の客体だけは、IDの有無で差別をしても良いかもしれない。法の主体である人間についても、やがては一人ひとりがIDを持つようになるであろう。しかし、何らかの事情でIDを持たない人がいた場合に、彼(彼女)が「人ではない」と認定されて良いことにはならないだろう。
 しかしこのことは、IDをやめるべきことを意味していない。デフォルトとしてはIDを使いつつも、例外処理の余地を残すべきだ、と主張しているに過ぎないからである。

 冒頭のシンポジウムがあってからしばらくして、私の懸念していた事態が現実のものとなった。しかし、私が想定していた「生身の人間がIDを欠いている」事態ではなく、まったく逆に「IDを持っている人が実在していない」という方向であった。
 きっかけは私の住居に近い足立区で、111歳と推定される老人が、白骨化して発見されたことである。その後、全国各地から行方不明の老人が出るわ出るわ、遂には「坂本竜馬と同世代の老人が存命(のはず)」という新発見(?)まで報じられている。そして、きっかけとなった事件では、年金の不正受給が犯罪を構成するとして、起訴されている。
 数年前に「消えた年金」という大問題が発覚して、それが機縁となって社会保険庁の改組にまで発展した。あの場合は、「入力すべき情報が正しく入力なされなかった」ことが問題であったが、今回は「消去すべき情報を正しく消去しなかった」ことが問われている。ベクトルはまったく逆だが、システムに対する過大な信頼がガンになっている、という点は共通である。
 思うに私たちは、デジタルの意味を誤解しているのではないだろうか? デジタルは「離散的」で0と1しかないという性質そのままに、あらゆることを「あれかこれか」に割り切ってしまう。しかし、そのデジタル技術を使うのは人間だから、間違いもあるし、故意に使い方を歪めることもある。最後は人間が見て、修正できる仕組みを組み込んでおかないと、人間が機械を使うのではなく、人間が機械に隷属する、新たな「モダンタイムズ」という事態を将来しかねない。
これは、あらゆることにリスクが潜むと考え、その受容レベルを予め設定しておこうという「リスク管理」の基本である。言い換えれば、「あらゆることに完全は無い」ということを受け入れる、「反完璧主義」である。ところが、この命題は、「AはBである」といった「強い命題」の対極にあり、受け入れるのに躊躇がある。岩村さんや私のように、「何となく気持ちが悪い」といった「弱い命題」としてしか提示できない。

 しかし、このことの重大性は、読者の想定をはるかに超えているかと思われる。納税者番号や、いわゆる「国民総背番号」については、反対派と推進派の間で熾烈な論争があったことは、今でもネットで調べることができる。
読者もご存知の通り、桜井よしこさんは「右派」の論客とみなされているが、こと「番号」に関する限り、コチコチの原理主義者として「私は番号になりたくない」などの見事な(?)キャッチコピーで、番号制反対の論陣を張った。
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2002/01/24/post_218/
当時の私は、もちろん推進派であり、池田信夫氏の論の方に親近感を抱いていることを申し添えておこう。 ※ http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/pcjapan35.html リンク切れ ※

 しかし、「消えた年金」や「消えた老人」のような事件を経た現時点では、以下のように言い直した方が誤解を避けられるだろう。つまり、「デフォルト設定としては、国民IDは推進すべきである。導入するメリットが、導入しないデメリットを上回るからである。しかし、IDがすべてを解決してくれるわけではないし、ましてやミスがあったときにはアナログ的に解決する方法を、補助手段として用意すべきである」と。
 つまりは「原理主義」はダメで、実態に基づいたプラグマティックな解決策を模索すべきだ、ということに尽きる。しかし、このような一見簡単な主張が実現しないのは、何とももどかしいことである。

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