第265号コラム:小向 太郎 理事
(株式会社情報通信総合研究所 法制度研究グループ部長 主席研究員)
題:「デジタル・フォレンジックと法律研究の10年」

 デジタル・フォレンジック研究会も今年で設立10周年を迎えることになり、8月には記念の式典が予定されている。10年前を振り返ると、当時はデジタル・フォレンジックという言葉自体が、世間にほとんど知られていなかった。私自身にとっても新しい概念で、どのように理解すべきなのか悩んだことを思い出す。このコラム欄で最初に書いたコラムを見直すと、そうしたとまどいが色濃くでている。「デジタル・フォレンジックと法制度研究」と題したそのコラムでは、次の4つを論点として挙げている。

(1)これらの技術を利用して集めた証拠が裁判上の証拠として認められるか
(2)技術や運用方法によって裁判上の証拠としての価値に差が出るか
(3)そもそもこれらの技術を利用することが法的に許されるか
(4)法制度の変化によってデジタル情報の重要性にどのような影響があるか

 このうち、(4)は、デジタル・フォレンジックに特有の論点ではなく、広く情報法一般が検討対象とする課題といってよい。正直に言おう。デジタル・フォレンジックにプロパーな論点が、まだあまり現実味を持って論じられていないので、こういった論点も視野に入れないと自分の居場所がないのではないかと危惧したのである。その後10年が経過し、デジタル・フォレンジックに直接関わる複数の事件が実際に起こってきた。現在では、(1)~(3)の議論も、多少は具体性を帯びてきているといってよい。

 例えば、デジタル証拠の保全については、どのようにして真正性を担保すべきかが当然に問題となる。わが国では、刑事訴訟(刑事訴訟法第318条)でも、民事訴訟(民事訴訟法第247条)でも、自由心証主義が採られており、証拠として採用されるかどうかは原則として裁判官の裁量に委ねられている。ただ、建前としては対等な当事者同士が争う民事訴訟はともかく、立場の非対称性がある捜査機関と被疑者が争う刑事訴訟についてはルールの必要性が高い。しかも、刑事訴訟の実務を考えると、捜査機関が提出する証拠の真正性を争うことは被告人の不利益になりかねない。私自身はこのような問題意識を持っていたが、あまり議論されることはないのではないかとも考えていた。捜査機関側の証拠のねつ造は、思ったよりもレベルの低い形で現実のものとなった。これによって、問題の所在は広く共有されたが、現在でもデジタル証拠に対する考え方が確立しているとは言いがたい。

 コンピュータウィルスやハッキングによって、自分が知らないうちに加害者や被疑者になってしまうことも、以前から危惧されていた。こうした危険も、遠隔操作ウィルスに感染したパソコンの保有者が誤認逮捕されることで広く知られることになった。私自身は、これが現実のものになるまで、捜査機関が技術を駆使しなかったことを批判されることは考えていなかった。不明を恥じるばかりである。刑事訴訟の世界では、新たな技術が出てくるたびに、捜査への利用の可否が議論されてきた(写真・ビデオ撮影、体液の採取、通信傍受等)。ただし、従来は犯罪捜査を積極的にすればするほど、手法を駆使すればするほど、人権侵害の危険は高まるという感覚があった。これらの技術は使うことが危険なのであって、「使わないこと」が危険だという議論はほとんどなかった。捜査機関がPCの検証をきちんとしてウィルスの存在を確認すべきだったというのは「使わないこと」を問題視する議論であり、これをどのように考えるかということについては、まだ共通認識ができていない。

 こうした新しい議論が出てきている一方で、そもそも裁判実務におけるデジタル証拠の扱いはまだまだ進んでいないという意見も多い。この10年で変わったことと変わらないことを思うと、軽いめまいを感じる。いずれにしても、デジタル・フォレンジック研究会において、法律・制度とその運用に関して具体的な議論を重ねていくことは、一層重要になってくるであろう。

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