第362号コラム:和田 則仁 理事(慶應義塾大学 医学部 一般・消化器外科 講師)
題:「真実とは」

医療事故が社会的に注目されるようになったのは、1999年に横浜市立大学病院患者取り違え事故と、都立広尾病院消毒液点滴事故が相次いで起きたことが契機であろう。前者は、2人の患者さんを1人のナースが手術室まで搬送し、それぞれの患者さんに予定されていた手術が逆に行われたものである。後者の事故は、消毒液を血液凝固阻止剤と取り違えて点滴され直後に患者さんが亡くなったもので、病院の隠ぺい体質も問われた事件である。これらの事故により、病院でも間違いにより患者さんの命に関わるような事故が起こりえることが社会的に認識されるようになった。当然それ以前にも間違いによる事故(医療過誤)はあったはずであるが、仮に予想外のことが起きても、多くの場合医療者側は専門性の壁を利用して、もっともらしい理由を患者さん・家族に説明し、納得してもらっていたものと思われる。

しかし、この2つの事故以降、想定外の好ましくないことが起きると、患者側は病院が何か隠しているに違いないと考え、医療者に詰め寄る場面は日常的な光景となった。当然、納得できない場合には法的争いに発展する場合も少なくない。不幸にして患者さんが亡くなった場合、訴訟により亡くなった方が生き返るわけではないので、金銭での損害賠償ということになる。しかしマスコミの報道をみると、患者側の提訴の理由で金が欲しいと書かれることは絶対にない。十中八九「真実が知りたい」と書かれている。
もちろん医療者側が嘘をついてミスを隠している場合は論外で、過ちを認め保険会社と協議の上、速やかに患者側に補償をしなければならない。最近、医療事故の鑑定や意見書を書く機会が多く、その経験から感じることは、医療側に明らかな過失はなく、これは仕方ないな、という案件が多いことである。医療には不確実性があり、同じように治療をしても結果は同じではない。合併症も一定の確率で起きる。また病院の規模や担当者の経験やスキルの違いによって医療水準が異なり、期待通り治療が成功する可能性も違うのが現実である。そのような確率的に避けることのできない好ましくない結果に対して、医療者は説明するのであるが、納得が得られないと「真実が知りたい」ということになるのである。

患者さんの治療中に、判断に迷うことがある。例えば治療法Aと治療法Bのどちらがいいかというようなものである。その2つが手術と薬物療法ぐらい違うこともある。病院ではカンファレンスでの議論やガイドラインを参考に方針を立て、最終的にはインフォームドコンセントを得て治療方針を決める。その時は最善と思っていても、治療法Aの結果がたまたま悪いとなると、振り返ってみて治療法Bにしておけば良かったかな、と思うこともある。手術にしても、あの時こうしていれば良かったな、と後から思うことはしばしばである。鑑定で気を付けなければならないのは、後からいくらでもケチが付けられるということである。「後医は名医」という言葉があるが、答えを知ってしまえば当たり前のことが、現場では必ずしも当たり前ではないのである。また記録がないことと、実施していないことの区別も難しい。例えばカンファレンスで治療方針を検討したとしても、その内容を診療録に書いていなければ、検討していないことと同様に扱われる可能性がある。然れば、「真実を知りたい」患者側が診療録を証拠保全し、後医がこれを見直すことで、真実を知ることができるのであろうか。やはり、その時の状況を完全に正確に再現することは凡そ無理であると言わざるを得ないし、そのことにどれ程の意味があるのだろうか、と思う。「真実を知りたい」の裏にある気持ちは「過ちを認め謝罪してほしい」なはずだ。

間違いがあれば隠さずに説明し必要があれば償うということを前提に、医療者と患者側が信頼関係を構築し、結果が悪くとも「真実を知りたい」という気持ちにならないようにすることが肝要だと思う。不確実性を有する医療とはそういうものだと思う。そのためには、真実かどうかは別として、客観的なデータが残されていることが重要であろう。IT化が進む病院では多くのデータが日々蓄積している。デジタル・フォレンジックの出番である。医療者側にとっても、隠せないという状況は重要である。それが医療者側と患者側とで信頼関係を築く一助になるはずである。

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