第781号コラム:町村 泰貴 理事(成城大学 法学部 教授)
題:「新しい技術発展に対する法律家の向き合い方」

 やや大仰なタイトルとなってしまったが、法律家が科学技術の発展と実用化の著しい現代社会でどのような態度をとるべきかを考えてみたい。この場合の法律家と科学技術の意味は、ある程度特定すべきかもしれないが、それをやりだしたところ1日かかっても収拾がつかなかったので、それは断念する。法律家としては実務法曹と法律研究者あたりを念頭に置く。また科学技術としては情報科学に属するものや医学に関するものを想定しておく。

 そして結論からいうと、法律家は、科学技術の進歩発展に対して基本的に味方となりうるし、そうあるべきだということになる。ただし、そこには譲れない一線というものがあるし、その一線を踏み越えないことは科学技術の側にとっても重要となるはずである。

 こうしたことを考えたきっかけは、アメリカ法という日米法学会の学会誌から論文の紹介を依頼されたことに始まる。その論文とは、D.F.Engrtrom教授のDigital Civil Procedureと題する紀要論文(169 U.PA.L.Rev.2243)であり、リーガルテックの進展が民事訴訟法学にどういう課題を与えるかということを論じたものである。その当時、私自身が民事訴訟法学会のシンポジウムテーマとして民事手続とIT化の問題に取り組んでいたため、渡りに船で引き受けたのだが、その論文の最後の方には、民事訴訟法研究者の果たすべき役割として、デジタル化された民事訴訟の運用の支援、データへのアクセス可能性を一般化して実務上の格差を是正すること、そして新しい法的技術に過度に依存することに対して警鐘を鳴らして防衛者の役割を果たすと同時に、過小依存、すなわちデジタル化への拒絶反応についても対処して、新しい技術の普及を進めていくべきだということが書かれていた。

 特に日本の民事裁判IT化の歴史を振り返ると、短い歴史ではあるが、現行民訴法制定当時(平成8年)や司法制度改革当時(平成13年から)の積極姿勢に対して、実務はほとんど動かず、デジタル化やオンライン化に対する拒絶反応一色であった。もちろん不動産競売に関するBITとか、例外的にオンライン技術を取り入れたものはあったし、テレビ会議システムのIP網利用のように目立たないところでのデジタル化はあったが、全般的には紙媒体と対面審理を当然のこととして、FAXが最先端通信技術で有り続けた。平成16年のオンライン申立規定の創設とその後の死文化の歴史は、デジタル化に対する過小依存姿勢を象徴するものである。

 ところが、新たな技術手段を利用して良いということになると、少々の法律テキストとの不整合には目をつぶったり、便法ともいうべき手段を駆使して一挙に利用が進むという現象がある。コロナ禍という特殊な環境下でもあったが、それまではほとんど見向きもされなかった書面による準備手続が、両当事者とも裁判所外からオンラインでアクセスして裁判官と争点整理を行える方法として一挙に進んだ。元々、書面による準備手続は遠隔地にいる当事者(代理人)のために、準備書面交換を通じて争点整理を行うことが中心となる手続であり、それでは不十分な場合に例外的に口頭協議の規定を設けていたに過ぎず、それは弁論準備手続の期日のような原則的な争点整理の場ではなかった。しかし弁論準備手続では両当事者の少なくとも一方が裁判所に出頭しないと電話会議システムを用いた「期日」も開けないという不便さを打開する便法として、両当事者ともオンラインで参加できる協議の場を活用して、事実上の争点整理期日を実施することにしたのである。

 そこでは、「期日」という概念が少なくとも当事者の一方が現実に出頭していることを前提にしているという言説を墨守しつつ、しかし事実上の争点整理「期日」を両当事者オンライン出頭で行ったという現実がある。この現実を前にすると、墨守されていた言説には、果たして守るべき価値があったのだろうかと疑問を禁じえない。

 この議論に深入りするのは、このコラムの目的ではないが、要するにコロナ禍の必要に迫られたとは言え、オンラインでの争点整理を実施するためであれば、期日という概念からくる障害も迂回して、事実上オンライン期日を実施してしまったし、それは日本全国の裁判所に瞬く間に広まったというのがこの間の事実である。裁判所も弁護士も、こうした形で一挙にデジタル化を進めていったことは、私も高く評価したいが、逆にコロナ禍の必要に迫られるまでは、期日という概念の枠組みに囚われて、本来取り入れるべき技術手段を取り入れてこなかったというところに、上記の過小依存の弊害を見るのである。そして同時に、こうした一挙のデジタル化進展が、本来守られるべき重要な価値を蔑ろにして進められる可能性も、もしかしたらあるのではないかという危惧を禁じえない。例えば両当事者が公平に裁判官の前で主張立証の機会を与えられるという双方審尋主義とか、あるいは判決を下す裁判官が直接当事者の主張立証を聞くという直接主義とかは、オンライン審理の導入に当たってきちんと考えられてきたが、一方当事者がオンライン審理を希望し、他方当事者が対面審理を希望している場合に、どうすればよいかというところは議論が詰められていない。特に証人尋問のような手続では、深刻な問題となりうる。そしてこのままでは、きちんと議論しないまま、法の施行を迎えてしまいそうである。

 要するに、デジタル化・オンライン化という新しい技術の導入に対して、民事裁判にかかわる法律家は拒絶反応に閉じこもっていたが、それを内閣官房の側からこじ開けられ、さらにコロナ禍への対処も必要となると、一挙に導入の方向に走り出して、実務も法律も変わっていった。その過程では、上記のような過小依存と過度の依存の両面が見られ、それに対して法律家は、守るべき価値や原理原則を守りつつも新しい技術への対応を進めてきたかというと、かなり怪しい状況であったし、今もそうである。

 こうしたことは、民事裁判のIT化にとどまらず、AIの法律実務への利用とか、ロボットの利用とか、あるいは生殖補助医療の活用とか、ゲノム編集とか、様々な先端的技術の実用化に当たって、法律家が果たすべき役割を示唆するものである。すなわち、既存の法律の枠組みに囚われず、特に合理性や重要性があるわけでもない法原則を墨守して新しい技術を拒絶することは愚の骨頂であり、立法論も含めた柔軟な対応で技術の発展と利用を進めていくべきである。しかし、技術の利用のためだといっても従来守ってきた重要な原理までも蔑ろにすることはあってはならない。より広く言えば、基本的人権の保障であるとか、その一部でもあるが平和的生存権とか幸福追求権といった個々人の幸せを基礎づけている法原理、あるいは平等権のような倫理原則についても、技術進歩がそれらを置き去りにするのではないかという点は、法律家こそが目を光らせていて、危険があればアラームを鳴らすという責務が、法律家にはある。


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