第827号コラム:小坂谷 聡 「法曹実務者」分科会 幹事(小坂谷・中原法律事務所 弁護士)
題:「刑事裁判における事実認定とベイズ意思決定論」

 先日、知人(國學院大学 中川孝博教授)が、ご自身の書かれた論文に対して、学会回顧で内容について触れられていなかったことをSNS上で残念がられていたのを目にしました。その論文では、情況証拠(間接事実)によって犯人性を認定する場合においての一つの基準を示したことで有名な大阪母子殺害事件の最高裁判決(最高裁平成22年4月27日判決、https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/149/080149_hanrei.pdf 以下、「本判決」といいます。)が示した判示は、「ベイズ意思決定論」により正当化されるものであり、そう読んで活用しなければならないという趣旨が述べられているようでした。
 ベイズ理論は、経営者の意思決定、マーケティング、プロファイリングの分野などでも近時目にすることが多くなり、私も以前から、事実認定の手法・参考として活用できないか気になっていたということもあって、上記中川論文を拝読してみました。
 このコラムは、末尾に記載したその中川論文と、裁判における合理的判断のための規範モデルとしてベイズ意思決定論を従来から提唱されており、中川論文でも引用されていた太田勝造教授の論文の2本の論文に依拠して論じています。

まず、本判決について簡単に説明します。
本判決は、情況証拠によって犯人性を認定する場合において、「情況証拠によって認められる間接事実中に、被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要する」と判示しました(以下、「本判示」といいます。)。本判示に関しては、有罪立証のためには「合理的な疑い」をいれない程度の立証が鉄則である刑事裁判の実務に対し、ある意味踏み込んだ判断を示したものとしてインパクトが大きかったことから、その理解を巡って既に多くの論者により議論されてきました。

 事案の概要は、大阪市内の4階建マンションの3階の一室から火事が発生し、母親と子供の死体が発見され、その後、母親の夫の養父である被告人が逮捕され、殺人及び現住建造物等放火で起訴されたというものです。
 第1審判決(大阪地裁平成17年8月3日判決)では、数個の間接事実を認定したうえで、「以上の事実を全体として考察すれば、被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているというべきである」として、被告人を有罪としました。そして、控訴審判決(大阪高裁平成18年12月15日判決)でも、第1審判決に事実誤認はないと判断されました。
 これに対して、本判決は、上記のように判示し、控訴審判決及び第1審判決を破棄し、第1審に差し戻しました(その後、被告人の無罪で確定しています。)。本判決では、下級審で認定された間接事実の1つに対して、その認定を否定し、そのうえで、仮に、その事実が認められたとしても、認定されている他の間接事実を加えることによって、被告人が犯人でないとしたらならば合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係があるとまでいえるかどうかにも疑問があるとされ、審理不尽及び事実誤認の疑いがあると判断されています。

 ところで、ある事象が起こったという条件のもとで他の事象が起こる確率(条件付き確率)が成り立つ定理をベイズの定理といいますが、ベイズの定理を用いて、不確実性の状況下で得られた情報(データ)からどのような行動をとるのが最善かを統計学的に決定する理論のことを「ベイズ意思決定論」といいます。
 確かに、事実認定とは、ある事実が真実であるか虚偽であるか不明(不確実)である状況のもとで、さまざまな証拠(情報)を得て、その事実の真偽を合理的に決定していく作業であるといえ、その意味で、主観的確率論に基づくベイズ意思決定論が応用できる余地はあると言えるでしょう。

 ベイズの定理では、証明主題が真であるか偽であるかの確率と、ある証拠が存在する(認められる)場合と存在しない場合との関係について、以下のような式で整理されています(中川論文・417頁参照)。また、当該証拠の存否が認められる前(その証拠を加えて判断する前)の証明主題が真である(ここでは、被告人が犯人であること)確率は、「事前確率」と呼ばれています。

 P(H)   :被告人が犯人である事前確率。
 P(-H)  :被告人が犯人でない事前確率。P(-H)=1-P(H)。
 P(E|H)  :被告人が犯人であるとした場合、当該証拠が存在する確率。
 P(E|-H) :被告人が犯人でないとした場合、当該証拠が存在する確率。
 P(H|E) :当該証拠を加えて判断した、被告人が犯人である確率。事後確率という。
 
 そして、この事後確率は、下記のベイズの公式を用いて計算されます。
 P(H|E) = P(H) × P(E|H) / { ( P(H) × P(E|H) ) + ( P(-H) ×P(E|-H) ) }

 中川論文によると、本判示をベイズ意思決定論を踏まえて解釈すると、被告人が犯人であるという事実認定をする場合には、「個々の間接事実が積極証拠であることを適切に論証しなければならないことを前提として」、さらに「それら積極証拠の中には推認力が相当程度高いものが含まれていなければならない」。そして、この「推認力が相当程度高い」証拠は、「被告人が犯人であるとして、当該証拠が存在する蓋然性の方が、被告人が犯人でないとして当該証拠が存在する蓋然性よりも高く」( P(E|H)>P(E|-H) )、かつ、「後者( P(E|-H) )がもともと相当程度低い」という条件を満たす証拠であり、ここでは、P(E|H)が極めて高かろうが、それなりにしか高くなかろうが、「被告人が犯人でないとして当該証拠が存在する蓋然性」に着目し、それが相当程度低いことが求められています(中川論文・417頁以下)。
 これを分かりやすく数値を用いて前述のベイズの公式に当てはめて考えてみます。
例えば、被告人が犯人であるかどうかの事前確率が0.5(半々)であると仮定し、かつ、被告人が犯人であるとして当該証拠が存在する確率( P(E|H) )を0.9であると仮定します。この場合、被告人が犯人でないとして当該証拠が存在する確率( P(E|-H) )を0.01(100回に1回程度の割合)と仮定すれば、事後確率( P(H|E) )は0.989となりますが、他方、P(E|-H)をP(E|H)と同程度の0.9と仮定すれば、事後確率( P(H|E) )は0.5に過ぎません。
太田論文によれば、被告人が無罪であるとした場合、仮に、100回に1回の割合、あるいは1000回に1回の割合でしか認められないような事実関係であれば、「合理的に説明できない、あるいは説明が極めて困難である」と判断できるだろうが、20回に1回程度の割合でしか認められないような事実関係でさえ、「合理的に説明できない、あるいは説明が極めて困難である」かどうかは微妙な判断となるだろうと説明しています(太田論文・54頁以下参照)。
 この点、個々の事案において何回に1回程度の割合といった確率の値を定めたり、確率計算をすることは、定性的な評価を用いることの多い法律の分野では多くの場合困難であるといえるかもしれませんが、「ここではむしろ、精密な数値化が困難であるとしても、数値計算が可能な確率論の数値例を用いることで、定性的な示唆を受けることが可能であることを示すことになる」と言えるでしょう(太田論文・54頁参照)。

 前述のように本判示の理解については既に多くの論者によりそれぞれの立場に基づいた解釈が展開されています。そもそも、「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」とは何を指すのか、また、本判示は、その「事実関係」を事実認定のための総合評価に参加する間接事実中に必要なものとして認めているかなど、「テキスト自体に曖昧さが残るため、テキスト解釈ゲームによってさまざまな見解」が導出されているきらいがあるとも言えるでしょう(中川論文・434頁等)。
 しかし、本判決には、差戻し前第1審判決の判示を始め、多くの裁判実務でも採られてきた手法、即ち、「推認力が高いとはいえない各間接事実を『全体として考察』することにより『各事実は相互に関連し合ってその信用性を補強し合い、推認力を高めている』として、被告人が本件各犯行を犯したことについて、『合理的な疑い』をいれない」とするような手法を否定したと認められる点に重要な意義があるということには異論はないと考えられます(後藤貞人・編著「否認事件の弁護 下」現代人文社(2023)23頁参照)。そして、その否定を支える理論的根拠として、ベイズ意思決定論により本判示を理解するべきとした中川論文や太田論文には大いな示唆があります。
「被告人が犯人であるとした場合、当該証拠が存在する確率」( P(E|H) )がいくら高くても、「被告人が犯人でないとした場合、当該証拠が存在する確率」( P(E|-H) )も同様に高いと評価されれば、前者( P(E|H) )の証拠をいくら積み重ね(加え)総合したとしても、事後確率は上昇せず、被告人を犯人であると認定することは困難であるという視点は、実務を担っていくうえで忘れないように心掛けていきたいものです。

中川孝博「『被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係』(最判平22・4・27)は間接事実中に必要か」赤池一将他編「刑事司法と社会的援助の交錯 土井政和先生・福島至先生古稀祝賀論文集」現代人文社(2022)416頁以下

太田勝造「『被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することが極めて困難な間接事実』について-事実認定・心証形成の合理的理論からの一考察-」法律論叢92・4,5合併号(2020)37頁以下

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