第831号コラム:名和 利男 理事(株式会社サイバーディフェンス研究所 専務理事/上級分析官)
題:「地政学リスクによるサイバー脅威の分類」
はじめに
近年、サイバー空間が国家間の新たな戦場となり、地政学リスクとサイバー脅威の関連性が強まっています。本コラムでは、地政学的な観点からサイバー脅威を分類し、その特徴と影響について考察します。
1. 地政学リスクとは
2001年の米国同時多発テロ事件の後に「対テロ戦争」、「イスラム圏の緊張の高まり」、「国際テロリズムへの警戒強化」、「中東情勢の不安定化」、「国家間の対立構造の変化」など、さまざまなリスクが立て続けに発生しました。これに対して多くの識者が、このような状況を理解しようと、地理的要因が国家の政治、経済、軍事に与える影響を研究する学問である「地政学(geopolitics)」の概念を多用し始めまた。
その翌年2002年9月24日に開催されたFOMC(連邦公開市場委員会)の会合において、「 geopolitical risk(地政学リスク)」をはじめとして、「geopolitical area」「geopolitical concern」「geopolitical event」「geopolitical expert」などの地政学に基づいた用語が積極的に使われました[1]。このFOMC (連邦公開市場委員会)は、米国の金融政策を決める重要機関です。年に 8 回ほど会議を開いて、金利の設定や経済の分析を行い、景気への影響が大きい政策を決定しています。
このような使われ方により、地政学リスクは、「国家間の政治的、経済的、軍事的な緊張関係や対立が、企業活動や投資環境に与える潜在的な悪影響のこと」を意味するようになりました。
2. 地政学リスクとサイバー脅威の概要
デジタル化の進展、サイバー攻撃の低コスト化と高効率化、匿名性と帰属の困難さ、経済戦争の手段としての有効性の高まりなどを背景に、地政学リスクとサイバー脅威の関連性が深まる中、サイバー攻撃は国家の戦略的ツールとして活用されるようになりました。次に、地政学リスクに基づくサイバー脅威を4つに分類し、解説します。
2.1 国家主導型サイバー攻撃
- 国家が関与するサイバー攻撃は、軍事、政治、経済目的のために行われる。
- 重要インフラ攻撃で社会混乱を引き起こし、技術的優位を得ることが目的。
- 攻撃対象は政府機関、軍事施設、重要インフラ、大企業である。
2.2 経済的動機に基づくサイバー犯罪
- 経済的利益を目的とした、国家支援型または組織犯罪グループによるサイバー攻撃。
- 主に、産業スパイ活動、知的財産の窃取、金融システムへの攻撃などが目立つ。
- 機密情報の流出により競争力低下や営業戦略の露呈が生じる可能性がある。
2.3 イデオロギー対立に起因するサイバーテロリズム
- 政治的、宗教的、または社会的イデオロギーの対立から生じるサイバー攻撃。
- ハクティビズム、プロパガンダの拡散、重要インフラの破壊などが目立つ。
- ウェブサイト改ざんやDDoS攻撃により、業務阻害や評判の毀損のリスクがある。
2.4 サイバー空間を利用した資金調達活動
- 北朝鮮などがサイバー空間を利用して制裁を回避し、不正な資金調達を行う。
- 仮想通貨の不正取引やランサムウェア攻撃による身代金要求が行われる。
3. 地政学リスクとサイバー脅威の相互作用
地政学リスクとサイバー脅威の相互作用は、現代の国際関係における最も複雑かつ重要な課題の一つとなっています。両者の関係は、単なる因果関係ではなく、複雑な連鎖反応を引き起こす相互依存的なものです。
この相互作用の中心にあるのは、エスカレーションの連鎖です。ある国家によるサイバー攻撃は、被害国の報復を招き、それがさらなる攻撃を誘発するという悪循環を生み出します。2007年のエストニアへのDDoS攻撃は、この連鎖の典型例です。ロシアとの政治的対立を背景に発生したこの攻撃は、NATOのサイバー防衛強化につながり、サイバー空間における新たな緊張関係を生み出しました。
さらに、物理的な紛争がデジタル空間に拡大する傾向も顕著です。南シナ海の領有権争いに関連して、中国とフィリピンの間で発生したハッキング合戦は、地政学的対立がいかにサイバー空間に反映されるかを示しました。
経済制裁の代替手段としてのサイバー攻撃も、この相互作用の重要な側面です。北朝鮮による仮想通貨取引所への攻撃は、国際的な経済制裁を回避し外貨を獲得する手段として機能しており、従来の地政学的圧力に対する新たな対抗手段となっています。
情報操作による地政学的影響も看過できません。過去の米国大統領選挙におけるロシアの介入疑惑は、サイバー空間を通じた情報操作が国家間関係や国内政治にいかに大きな影響を与えうるかを示しました。この事例は、民主主義プロセスの脆弱性を露呈させただけでなく、米露関係を著しく悪化させる要因となりました。
技術覇権競争の激化も、地政学リスクとサイバー脅威の相互作用を加速させています。5G技術をめぐる米中対立は、単なる技術競争ではなく、サイバーセキュリティと国家安全保障の問題として扱われています。この競争は、デジタルインフラの管理権を巡る新たな地政学的対立を生み出しています。
これらの相互作用は、国際秩序に新たな不安定要素をもたらしています。サイバー空間における攻撃の帰属の困難さや、非対称性の戦略的価値は、従来の抑止理論や紛争解決メカニズムの有効性を低下させています。その結果、国際社会は、サイバー空間における行動規範や法的枠組みの整備という新たな課題に直面しています。
おわりに
地政学リスクとサイバー脅威の関係は、ますます複雑化しています。国家主導型攻撃、経済的動機に基づく犯罪、イデオロギー対立によるテロリズム、サイバー空間を利用した資金調達活動など、さまざまな形態のサイバー脅威が存在します。
これらの脅威に効果的に対処するには、国際社会の協調、技術的対策の強化、法的枠組みの整備が不可欠です。同時に、新たな技術の発展がもたらす潜在的なリスクにも注意を払う必要があります。
サイバー空間の安全を確保することは、現代社会の安定と繁栄にとって極めて重要です。地政学的な視点を踏まえたサイバーセキュリティ戦略の構築が、今後ますます求められるでしょう。
【著作権は、名和氏に属します】
[1] FOMC (連邦公開市場委員会)会合に関する議事録( 2002年 9 月 24 日)
https://www.federalreserve.gov/monetarypolicy/files/FOMC20020924meeting.pdf