第841号コラム:丸山 満彦 監事(情報セキュリティ大学院大学 客員教授 PwCコンサルティグ合同会社 パートナー)
題:「「親分でまとまる集団とルールでまとまる集団」とIDFに対するちょっとした提案」

・はじめに

デジタルフォレンジック研究会が設立したのが、平成16年(2004年)8月23日です。設立から20年が経ちました。このニッチな業態の中、よくぞ20年継続したものだというのが、私の素直な感想であるとともに、この領域の重要性に20年以上前に気づき、関係者を巻き込み団体として活動を開始した設立時の皆様、そしてその活動を継続して、ここまで発展させてきた皆様の熱意と活動及びその成果に対して頭が下がります。

さて、そんなこの団体について、私の一つの考えを紹介したいと思います。

その前に、この考えに至った背景として、「親分でまとまる集団とルールでまとまる集団」について説明をしたいと思います。

・親分でまとまる集団とルールでまとまる集団がある

世の中には、「親分でまとまる集団」と「ルールでまとまる集団」があります。少し長くなりますが、まずはこの話から始めます。

親分でまとまる集団

「親分でまとまる集団」というのは、特定の個人を中心として、あるいは頂点としてまとまっている集団です。親分のいうことは聞きますという(暗黙の)契りのもとにまとまっている集団ともいえるでしょう。「Aさんの意見だから聞こう」「Aさんがいうので仕方がない」「Aさんに最後は決めてもらおう」というように、決めたり、指示をしたりするのが特定の人であることによって成り立っている集団です。例えば、政治家の派閥であったり、やくざの社会というのはこのような集団が典型です。ただ、目を凝らせば、日本のいたるところで同じような構造の集団というのが見えてきます。例えば、会社の中、学会の中、PTAの集まりの中など、日本の社会ではよくある集団の属性といえます。親分同士の争いが、集団全体の争いとなってしまうことも多くあります。日本では昔から馴染みのある集団形成の仕方といえます。

親分でまとまる集団を図で表すとこんな感じです。

<図1>親分でまとまる集団

<図1>親分でまとまる集団

・ルールでまとまる集団

これに対して「ルールでまとまる集団」というのは、特定のルールを守るという契約、誓いのもとまとまっている集団です。宗教集団というのは、まさに聖書、教義、経典といった考えを守るという(神との)契約、誓いによりまとまっている集団といえます。欧米の集団の多くはこの考え方による集団です。集団が大きくなると、役割分担が必要となってきますが、その役割分担もルールに基づいて決められ、ルールに基づいて役割を果たして行くことになります。その役割に誰がついても、やることは同じです。誰であっても、そのルールに従って役割を果たすことになります。逆に、誰であっても、その役割につけばそのルールに従って役割を果たさなければなりません。

ルールでまとまる集団を図で表すとこんな感じです。

<図2>ルールでまとまる集団

<図2>ルールでまとまる集団

実は、明治時代以降、欧米の制度を導入し、近代化を図ってきた日本も、制度面ではほぼこのルールでまとまる集団です。

まず、国は憲法で規定されています。政府がすべきこともこの憲法で決まっています。より、具体的な政府の活動は法律で決まっています。誰が総理大臣になろうとも、それは変わりません。会社でも同じです。社会に対する会社のルールは定款です。会社は法律の他、定款に従う必要があります。会社の内部も同様です。法律の他、社内の規程等に従って活動する必要があります。それは、誰であっても同じです。

二つの集団の特徴を並べてみますので、参考になればと思います。

<図3>「親分でまとまる集団とルールでまとまる集団」の比較

<図3>「親分でまとまる集団とルールでまとまる集団」の比較

どのような社会であっても、どちらか一方ということはありません。どちらの要素も含まれて社会は成り立っています。ただ、どちらの要素がより支配的かという観点で考えてみてください。

・蛇足:日本の組織における制度と実態のねじれ

上にみてきたように、日本古来の集団は、「親分でまとまる集団」でした。ところが、明治時代の近代化とともに、欧米の「ルールでまとまる集団」の制度を導入しました。結果、何がおこっているか?表向きはルールでまとまる集団の制度になっているのに、人間関係は親分でまとまる集団であるため、その齟齬があると、組織がうまく機能しなくなることがあります。また、役割は能力によってきまるため、必ずしも親分でまとまる集団の形をそのままルールでまとまる集団の制度にあてはめることもできないはずです(能力があっていない人が役割につくことになる)。かくして、日本の組織はその能力を十分に発揮できないのかもしれません。

・種明かし:中根千枝著 「タテ社会の人間関係 – 単一社会の理論」

今回紹介した考えは、実は私の考えではなく、1967年に発行された中根千枝さんが記した「タテ社会の人間関係 – 単一社会の理論」という書籍で説明されている考え方です。参考になる書籍ですので、お時間があれば、是非目を通してみたらいかがでしょうか?

中根千枝著 「タテ社会の人間関係 - 単一社会の理論」

・おわりに – デジタルフォレンジック業界のルールを作るときではないか

さて、ここからが本題となります。振り返って、IDFという集団は何でしょうか?IDFは親分の元に集まった集団ではありません。デジタルフォレンジックという考えを社会に普及させ、健全なIT社会の実現に貢献するために、設立された団体です。また、デジタル・フォレンジック・プロフェッショナル認定(CDFP)という資格認定制度も始めています。いわば、一定のルールによりまとまった集団というのが合うのではないかと思います。

これまでの20年以上の継続活動により一定の社会的成果を出してきた団体だからこそ、ここで業界、すくなくとも資格者としてのルールを決める必要はないでしょうか?デジタルフォレンジックスに関わる集団がよって立つルール。このルールの下に集まる集団。私たちは、親分子分でなりたつ集団ではありません。一定の専門性のあるプロフェッションの集まりです。プロフェッションがよって立つルールというのが必要だろうと思います。

皆様はどう考えますでしょうか?

以 上

【著作権は、丸山氏に属します】