コラム第869号:「トランプ政権の法律戦略」

第869号コラム:湯淺 墾道 理事(IDF副会長、明治大学 公共政策大学院 ガバナンス研究科 教授)
題:「トランプ政権の法律戦略」

 就任以来、一貫性や論理性、客観的根拠を欠くような政策を次々に発表し、内外の人々を驚かせたり呆れさせたりするような施策を実行している2期目のトランプ政権であるが、実は周到に用意された法律戦略に基づいているという見方もある。
 2期目のトランプ政権の最大の法的課題は、3期目を狙うことはできないという根本的な憲法上の制約である。第二次世界大戦中にフランクリン・ルーズベルト大統領が1944年の大統領選挙で勝利して4期目の任期を務めたことから(在任中の1945年に死去)、戦後、合衆国憲法修正第22条が制定・批准され、「何人も、2回を超えて大統領の職に選出されてはならない。」として3期以上務めることはできないことが明文化された。この規定を改正しないかぎり、トランプ大統領は3期目には就任できないはずである。
 しかし、刑事訴追に対する大統領特権を行使できることが大統領選への立候補の理由の一つであったであろうことから、簡単にトランプ大統領が3期目をあきらめるとも思われない。実際に最近、3期目以降も大統領を続けることをほのめかすような発言もしている。それでは、どのようにして3期目に就任するつもりなのであろうか。
 取り沙汰されているのは、「イーストマン・レポート」のような法律家による戦略の存在である。「イーストマン・レポート」は、カリフォルニア州にあるチャップマン・ロースクールの教授を務めたジョン・イーストマンらによって作成されたもので、前回の大統領選挙においてバイデン候補に敗れた後、敗北を認めず大統領に留まり続けるための法的な戦略がまとめられていたといわれる。実際に、民主党が勝利を収めた7州で、正式な選挙人ではないトランプ候補の支持者が自分たちは正当な選挙人であり共和党のトランプ候補に投票したと主張し、連邦上院議長に対して選挙人名簿と投票結果を送付したことがある。これらの自称選挙人の主張は、民主党の勝利は投票や開票に不正があったためであり、不正がなければ共和党が勝利していたはずで、自分たちこそ真正な選挙人であるというのである。この主張はイーストマン・レポートに基づくものとみられている。
 3期目を務める一つの方法として指摘されているのは憲法改正であるが、これには時間を要する。そこで、憲法改正が実現するまでは「つなぎ」の大統領を選んでおき、その間、実質的に政治権力を行使できるポストにとどまって「院政」を敷く。改正が実現したところで、あらためて3期目に立候補する。その際には、大統領選挙の運用を本来の選挙人制度に戻し、州議会によって選挙人を選出するようにするというのが法的な戦略である。
憲法改正が実現するまでとどまるポストとして利用される可能性があると指摘されているのは、副大統領か、連邦議会下院の議長である。特に下院議長については、合衆国憲法第1条第2説第5項は「下院は、その議長及び他の役員を選任し、また弾劾の権限を専有する。」と定めているが、下院議長の資格については特に規定していない。これまで議員以外から下院議長が選任された例はないものの、議長を議員に限定する法令は存在しない。このことから、大統領の退任後に下院によって下院議長に選任されることは、理論上は可能であると指摘されている。イーストマン・レポートが作成されたときと同様に、さまざまな憲法上の規定を分析し、このような理論を提供している法律家のグループが存在するといわれているのである。
 ところで、このようなトランプ政権の手法は当然、アメリカの民主主義を後退させるのではないかという懸念が強い。トランプ大統領やその側近は、ロシアや中国など強力な指導者に権力を集中させる専制や権威主義を志向しているのではないかという見方もある。
他方で、アメリカは本当に「民主主義」の国なのかという点を考える必要があるだろう。
 アメリカ合衆国憲法の中には、意外なようだが、democracyとか、democraticという文言はない。代わって、アメリカ合衆国憲法ではRepublican Form of Governmentという文言が用いられており、第4条第4節では「合衆国は、この連邦内の各州に共和政体を保障」しなければならないとしている。これを「共和政体保障条項」というが、合衆国が州に共和政体を保障しなければならないのであって、合衆国自身が共和政体を採用しなければならないとは直接には規定されていない。
 アメリカ大統領選挙は、現在でも制度としては間接選挙を採用しており、実態としては直接選挙的に運用されているものの、依然として国民は大統領選挙人を選出し、大統領選挙人が大統領を選出するという制度になっている。
 また連邦議会の議員についても、合衆国憲法第1条第2節は「下院は、各州の人民が2年ごとに選出する議員で組織される。」と規定するだけである。連邦上院議員は、「(上院議員)の選出は州議会が行い、その任期は6年とする」と定められており、連邦上院議員は初期には州議会によって選ばれていたのである。連邦上院議員が直接選挙で選ばれるようになるには、1913年に発効する修正17条を待たなければならなかった。また南部諸州のアフリカ系アメリカ人は、1965年投票権法が制定されるまでは、南北戦争の直後の短い間を除いて事実上選挙権を剥奪されていた。ネイティブ・アメリカン(アラスカ・ネイティブを含む)はネイティブ・アメリカン居留地の市民であるからアメリカ合衆国市民ではないとされ(実際に現在でもネイティブ・アメリカン居留地は州法等の制限を受けない一定の自治権が保障されている)、1924年のインディアン市民権法が制定されるまでは連邦の選挙における投票権が認められていなかった。
 このような建国初期の政体を、ある場合は憲法の改正や条文の追加(修正)を行い、ある場合には連邦最高裁判所が憲法を解釈することで、「民主的」な姿を実現してきたというのがアメリカの歴史であるといえよう。
 他方で近年、連邦最高裁判所の裁判官の間ですら、このような歩みを否定し、少なくともアメリカ合衆国憲法を解釈する際には建国の父たち(母はいないことにも留意)がそのように企図していたのかという原点に沿って解釈すべきだという「原意(original intent)主義」が強まっている。
大統領選挙の直接選挙的な運用をやめることは、非民主的であると批判を受けるだろう。他方でそれはアメリカを建国の父たちが企図していた姿に戻すことであり、それが本来のアメリカの「共和政体」なのだという主張も、トランプ支持者には説得力を持つであろう。またそれは、アメリカを再び強くする(Make America Great Again)という主張とも親和的である。建国初期のアメリカこそ強いアメリカであったとすれば、政治制度をそのときのものに戻すことは、アメリカを再び強くすることになるからである。
 このように考えてみると、アメリカの政治制度を「非民主的」にすることは、決して荒唐無稽で滅茶苦茶な政策ではなく、そこに個人的野心や利益追求が介在するとしても、一定の法的合理性(それに賛同できるかどうかは別にして)を持っているのではないか、と思いはじめているところである。

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