コラム第887号:「災害と避難」

第887号コラム:舟橋 信 理事(株式会社FRONTEO 取締役)
題:災害と避難

 先月30日、カムチャッカ半島付近を震源地とする地震発生時に約97万世帯、200万人に対して津波警報や注意報が発令され、多くの方々が避難された。
 津波や高潮等の自然災害が発生した際には、避難行動が生死を分けることとなる。本稿では、1956年の伊勢湾台風襲来時における避難行動に係わる教訓について述べることとする。

 1959年9月26日午後6時過ぎ、台風第15号が紀伊半島に上陸した。後に「伊勢湾台風」と命名されたこの台風は、愛知県名古屋市をはじめとする伊勢湾岸に未曽有の被害をもたらした。名古屋港では潮位偏差が3.55mに達し、想定された最高潮位を約1mも上回った結果、海岸堤防は各地で決壊。死者・行方不明者は5,098人にのぼり、その83%が高潮による犠牲者だった。被害は愛知県と三重県に集中し、高潮防御の脆弱さとともに、情報伝達や避難計画といったソフト面の欠如が被害拡大の一因となった。

避難計画と情報伝達の不備
 当時の名古屋市には、大規模災害を想定した避難計画が存在せず、避難指示の時期や方法、避難場所、誘導責任者の明確化といった実務的な項目も欠落していた。警察や消防との連携も不十分で、危険周知や通信手段の整備、市民救助組織の構築などが後手に回っていた。
 気象台は前日から高潮の危険を警告していたが、台風接近時には停電や通信障害が広範囲に発生し、ラジオや電話を通じた情報が住民に届かず、危険の切迫を知らせる手段が失われていた。
 地域のリスク共有も不十分だった。名古屋市内で被害の集中したゼロメートル地帯は戦後の工業化で住宅地化した干拓地や埋立地であったが、水害の危険性は新住民にほとんど伝えられていなかった。過去の高潮被害の経験や政府の研究成果も活かされず、防災意識は低調なままだった。

干拓地における避難行動の実態
 被害が最も深刻だったのは、海面下に位置する干拓地の集落である。愛知県弥富町(当時)の鍋田干拓地は、高さ6.3mの海岸堤防で守られていたが、高潮により延長7,050mのうち5,350mが破堤。海水は2階建て家屋の軒先まで達し、164戸全てが全壊・流出した。入植者とその家族の死亡率は46.3%に達した。
 当時、町は総出で河川堤防の決壊対策にあたっており、避難命令は出されていなかった。水位上昇が急激に進んだ19時過ぎに助役が避難を指示したが、直後に溢水し、町全域が水没した。結果として弥富町内の死者・行方不明者は322人にのぼり、県全体の1割を占めた。
 一方、愛知県碧南市の碧南干拓地では対照的な結果となった。1953年9月25日の台風第13号襲来による被害の教訓から、市は警戒態勢を早期に整え、16時30分には干拓地住民に避難命令を発令。市の広報車や消防車が暴風雨の中で避難誘導を行い、住民を寺院や公民館へ段階的に避難させた。その結果、海岸堤防は破堤して干拓地は水没したものの死者・行方不明者はゼロだった。過去の被害経験をもとに、避難行動を制度化・実践できたことが被害を最小限にとどめた要因である。

教訓
 伊勢湾台風の被害は、高潮防御施設の脆弱さだけでなく、避難計画や情報伝達の欠如が命を奪うことを明確に示した。特に干拓地の事例は、同じ地形条件下でも避難行動の有無が生死を分けることを示している。
 鍋田干拓地では、避難指示が遅れ、さらにその伝達手段も乏しかった。一方で碧南干拓地は、過去の災害の記憶を組織的に継承し、避難計画を実行に移すことで死者は出なかった。
 この対比は、災害時の「初動の速さ」と「平時の備え」の重要性を浮き彫りにしている。
現代においても、高潮や洪水の危険地域は全国に存在している。伊勢湾台風から学ぶべきは、ハード整備と並行して、地域住民へのリスク情報共有、避難計画の具体化、そして訓練を通じた実効性の確保である。過去の教訓を生かすか否かは、将来の被害規模を大きく左右することを干拓地の二つの事例が示している。

以上

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