第64号コラム:林 紘一郎 氏 (情報セキュリティ大学院大学 学長)
題:「DNA鑑定、ブラック・ボックス、信頼性」

はじめに

足利事件においてDNA鑑定の信頼性が問われたことは、私たちフォレンジックに関心を持つ者にとって、貴重な研究材料になる。現代社会は数多くの技術に依存しているが、技術が高度化すれば、ブラック・ボックス化は不可避である。一般の人がその信頼度を判断することは難しく、専門家と呼ばれる人でさえ、時として盲信する恐れがある。そうならないためにはどうしたら良いか、を一緒に考えたい。

 

足利事件

1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場で4歳の女児が行方不明になり、翌日渡良瀬川河川敷で遺体が発見された。同市では79年と84年にも幼女殺害事件があり、未解決のままだったので、県警は180人という異例の体制で捜査に当たった。

約1年半後、単身で借家暮らしをする「不審人物」として、菅谷利和さんがマークされ、ゴミ袋から採取された体液と、女児の下着に付着した体液のDNAの型が一致した、として任意同行を求められた(91年12月)。同行当日の深夜になって犯行を認めた菅谷さんは、一審でいったんは否認に転じたものの、再び公判で自白し、結審後に本格的に否認に転じた。

宇都宮地裁(93年7月)は求刑どおり無期懲役の判決、東京高裁(96年5月)が控訴棄却、最高裁(2000年7月)が上告を棄却したため、無期懲役が確定した。なお、この最高裁判決は、DNA鑑定の証拠能力を認めた初の判決として注目された。

 

DNA鑑定

わが国における捜査手段としてのDNA鑑定は、科学警察研究所において開発され、事件発生のほぼ1年前「実用化」に成功したばかりだった。しかし当時の一致確率は1,000分の1.2程度(その後1,000分の5.4という数字も報じられている)とされ、足利市内に該当者が50人(200人)程度はいる、というレベルだった。

この間、控訴審以降の弁護側は、DNA鑑定が信頼性に欠けるにもかかわらず、それを元に自白に追い込んだので、自白もまた信頼のおけるものではないと主張した。しかし最高裁までこれを否定したため、DNA鑑定の問題点を新たなDNA鑑定で問うことにした。97年、菅谷さんの毛髪44本を使った弁護団独自の鑑定では、いずれも真犯人のものとされる型とは異なっていた。

2002年12月に請求された再審を、08年2月にいたって宇都宮地裁が棄却したため、弁護側は即時抗告した。これを受けた東京高裁は、同年12月に再鑑定を決定し、その結果「不一致」の結論に達したとして、弁護側・検察側に伝えた(09年5月)。そこで弁護側が、菅谷さんの釈放を求めたところ、東京高検はこれを認めた(6月4日)。

法的には、未だ先の最高裁判決(確定判決)が覆ったわけではないのに、それ以前に釈放するのは、きわめて異例である。東京高裁は再審の開始を決定し(6月23日)、事件は再び宇都宮地裁に戻された。

 

信頼性

DNA鑑定の信頼性は、急速に向上しているようだ。一般には、「世界中に同じ型を持つ人はまずいない」と信じられている。数字的には、先の「1,000人に1.2人」が「4兆7千億人に1人」にまで向上した、と言われている(事件を報じた『週刊朝日』2009年6月26日号)。しかし、「集合知」の代表とされる『ウィキペディア』によると、事はそれほど単純ではなさそうだ(2009年7月19日アクセス)。

 

あくまで検査で判定できるのは繰り返し数のみであり、その結果は数値でのみ表記されるため、「DNA鑑定」と言うよりも「DNA型鑑定」と称するべきとの提言がある。

現在の技術ではヒトゲノムの全ての塩基配列を調べるわけではなく、「一卵性双生児以外は全て結果が異なる」という認識は誤りである。赤の他人であってもDNA型は一致する。「天文学的に極めて低い確率(数十兆分の一)ではあるため指紋認識のような識別手段としての信頼性が置かれている。」というのも誤りで、どの程度の確率で同じDNA型の人が出現するかは良く知られていない。「全ての人間のDNAのパターン・データが登録されれば偶然の一致による誤診は防げる。」というのも誤り。

DNA型鑑定による個人識別の歴史・現状・課題を短くしたいという目的からか、鑑定の結果「DNAが一致」したといった表現がしばしばみられる。しかし、それらはいずれも、DNAのごく一部を分析しパターンの一致・不一致を判定し、確率論的に推定するものである。

どういう分析が行われ、何がどう一致したのかを確認しないと評価を誤りかねない。この点、指紋と異なり判断者に高度な専門的知識が必要とされ、その裁判において判断は専門家の解釈に依拠することになる。

 

ウィキペディア説を補強する、いくつかの証拠

現代社会は数多くの技術に依存しているが、技術が高度化すれば、ブラック・ボックス化は不可避である。いくつかの状況証拠から、どこまで信頼できるかを推定するしかない。ここでは、ウィキペディア説を補強する限界的事例を挙げてみよう。

証拠1:今回の鑑定は、2人の専門家が別々に行なっているが、その両者には違いがある。しかし、裁判所が採用したのは片方だけなので、どのような違いがあるかは分からない。

証拠2:DNA鑑定発祥の地であり、すでに40万件に上る実績のあるイギリスで、2009年3月にある容疑者が27年の服役の後、DNA鑑定に疑いがあったとして釈放された(『選択』2009年7月号)。

証拠3:2つのDNAを持つ人(キメラと呼ぶ)がいるので、DNAで個人が完全に同定できる、とまでは信じ込まない方が良い。

証拠4:他の要素を慎重に排除して、鑑定する必要がある。2007年にオーストリアで殺人事件等40件に同一DNAが関与しているとされた事件では、そのDNAは綿棒納入業者の女性社員のものだった。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/269506

 

DNA鑑定の多角的応用例

DNA鑑定は犯罪捜査だけではなく、広範囲に使われている。同時多発テロでは、死者の身元の確認に利用され、DNA鑑定の評価を高めた。また親子関係の確認や、遺骨の鑑定などにも使える。災害やテロに備えて、DNAデータを保存するビジネスも活発化している。

また、ヒトに関する鑑定だけに限らない。わが国では、食品の偽装や事故米が問題になったときには、他の品種が混入していないかどうかの判定に、威力を発揮した。今後はRFIDなどと組み合わせて、トレーサブルな利用が実現するだろう。

このような幅広い応用例がある技術を、中身を理解することが難しいという理由で、利用停止にするのは常識に反するだけでなく、害が多いと言わなければならない。とすると、その潜在的利用者には、ある程度のリテラシーが必要、ということになるのだろうか。

 

ブラック・ボックスとリテラシー

犯罪捜査に絞ってみても、DNA鑑定が他の操作手段に比べて、優れた点が多数あることも否定できまい。そうすると、どの程度信頼して良いかを知りたくなる。しかし、そのような意欲的な好漢には、まずガードナー式テストを試してもらいたい。

 

以下の『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌の文章が理解できるなら、完全に独立した思考者になれる。「複数の医療機関にまたがる無作為割付を用い、評価者がどの処置を割り付けられたか分からないようにした上で、好中球減少が長引いている患者のための予防措置として、ポサコナゾールの有効性と安全性をフルコナゾールあるいはイトラコナゾールと比較した」(ダン・ガードナー、田淵健太訳、『リスクにあなたは騙される』早川書房、2009年)。

 

私はとても、このテストをクリアできない。しかし私が裁判員に当選(?)して、DNA鑑定の結果に基づいて判決を出さなければならない、としたらどうだろうか?世の中には「不確定」な事柄は多いが、そのような「不確定」なものを基にして「確定」させなければならない事態も、また多いのである。

 

「失敗学」的フィードバックが必要

このような矛盾した要請に応えるには、従来型の学問では無理である。畑村洋太郎氏が提唱する「失敗学」のような、実務と学問を融合した方法論を考えなければならない。ところが、どうやら日本人は「失敗から学ぶ」という思考法が本質的に嫌いなようだ。この点については、すでに別の機会に細かく述べたので、ここでは繰り返さない。次を参照されたい。「「人間は間違える」ことを科学する」『Economic Review』 富士通総研 Vol.11 No.4, 2007年10月

http://jp.fujitsu.com/group/fri/report/economic-review/200710/page2.html

しかし世界標準は、「失敗から学ぶ」方向に進んでいるし、前述のように裁判員制度を導入することに決めた以上は、まずは「反省する」ことから再出発するしか、無いのではなかろうか。この事件を報じた多くの記事の中で、『東京新聞』の以下の記事は秀逸であったと思われる(2009年6月23日夕刊)。

 

プロの裁判官でも誤判をする。事実認定の判断に不安を感じている裁判員や、裁判員候補者に足利事件の教訓をどう伝えるのか。裁判員裁判を実り多いものにするためにも、高裁の即時抗告審で誤判の原因を探るべきだったのではないか。

宇都宮地裁で始まる再審では、検察は無罪論告する見通しで、弁護団は実質審理は行なわれないと危惧(きぐ)している。同地裁が誤判の責任を感じているなら、捜査機関の検証に委ねるのではなく、自らの再審公判の中で検証すべきだ。

 

フィードバックの具体例

そんなことは不可能ではないか、と思われる人も多かろう。ところがTBSは、7月19日(日)の深夜(24:50-25:20)に、「足利事件~TBSはどう報じたか」という検証番組を放映した。30分の深夜番組で、不消化の部分もあったが、少なくとも次の4点が指摘されたことは、画期的とも言える。

  1. 冤罪を疑った記者は1人もいなかった。
  2. 継続してフォローした記者も1人もいなかった。
  3. 自主的取材ではなく、記者クラブの発表を信じてしまった。
  4. 当日のテレビ・ニュースでは、一致率を「100万人に1人」と報じていた。
  5. ここで、第3点が最も重要である。マスメディアは、その日暮らしに追われる宿命があり、それをある程度は差し引いて考える必要はあるが、自分で取材しなければメディアでさえない。しかも刑事事件のように「疑わしきは被告人の利益に(無罪の推定)」の視点を持たねばならぬ場合は、なおさらである。

事件を再審に導いたきっかけが、同じ職業(児童送迎のバス運転手)の主婦の直感だったことは何を物語るのか、真摯な反省が望まれる。

 

【著作権は林氏に属します】