第82号コラム:伊藤 英一 (新潟県立新発田病院 循環器内科、IDF会員)
題:「医療におけるデジタル・フォレンジックについての一考察」

私は地方病院の内科医師である。デジタル・フォレンジック研究会には設立当初から参加していたが、フォレンジックという言葉をそれ以前に知らなかった。私がこの研究会に参加したのは、当時、勤務先でまとまった規模の情報システム導入の予定があり、これに関与する上で参考になりはしないかと期待したからである。そういう参加の仕方がこの研究会に相応しかったのかは分からない。以下に医療とデジタル・フォレンジックについて、この研究会に参加し、循環器内科医師として日常診療に多くの時間を割いている者として感じていることを書く。

 

医療の質をどうやって計るか、という問題に答えを出すことは意外に思われるかもしれないが今でも難しい。第45回コラムで和田理事が書かれたとおり、現在は各種診療ガイドラインが作成され、その内容は様々であるが医療の質の向上に貢献してきたと言える状況にある。私が医師になったのは二十数年前であるが、卒業後研修を始めてしばらくしてから医療の質ということを漠然と考えるようになった。当時、医療訴訟は今ほど身近な問題ではなかったが、前述のガイドラインのような考え方がない中で思いついたのは言わば反対の考え方、つまり法的に問題とされるような医療内容が医療の質の下限を成しているのではないか、それは何処ら辺にあるか、ということだった。

私のそうした関心に応えてくれるような本が2000年に刊行された。タイトルは『メディカル クオリティ・アシュアランス 判例にみる医療水準』であり、著者は当研究会の古川理事である。なお、法律家による医療訴訟判例集は入手しやすいが、医師による解説は今も類書が少ないと思われる。(古川理事は法律家でもあるが、第2版序文にもある通り、この本は安全で良質な医療の実践を目的として主に医療者に向けて書かれている。)この本の初版と2005年に発行された第2版の目次の章立てを比較すると、第2版では診療領域として新たに皮膚科疾患が加えられた他には変更はない。また、序文には医療過誤の原因の多くは医療機関の規模・性格に特異なものではなく、共通した問題に端を発していると書かれている。この2冊を読むと、初版発行後の5年間の医療の進歩や各種説明義務に関する考え方の変化の反映は感じられるが、タイトルにあるクオリティ・アシュアランスの観点からはデジタル技術が関与しうる部分は必ずしも多くはないように思われる。もっとも、2005年以降も医療機関でのデジタルデータの発生量は増え続けているであろうし、今後はデジタルデータが争いを左右することが増えてくるのかもしれない。

 

<レポート・記録>

医療機関で発生する情報量は多い。デジタル化は保険制度の影響もあって画像分野で急速に進行している。当院でもレントゲン検査(CT、MRI等を含む)でフィルムは用いていない。他に、内視鏡検査でもフィルムは使われなくなり紙での心電図記録も例外的になった。血液検査などの検体検査は大部分が数値データであり、紙の報告書はほぼなくなった。こうした検査結果やレポート類がデジタル化された際に問題が生じうるとしたら、真正性とともにそもそもレポートの元になる患者を取り違えていないかということになろう。後者は重要な問題だが、医療者のみでの問題の解決は難しい面がある。前者では多くの場合、特に血液検査等の検体検査の場合には結果の記録の作成・確定に人手が関与する要素は少なくなっており、自動化が進んでいる。しかし、レントゲン検査や生理検査では依頼医師の意図に応える撮影・検査をするためには、知識や技術が必要な面が今でも少なくなく、スイッチを押せば検査が完了するというものでもない。

レポートや記録の作成・確定とは別に、結果やレポート類がそれを指示した医師によって確認されたのかどうかも問題になる可能性がある。レポート閲覧をログとして残すシステムや閲覧確認操作を求めるシステムも見られる。当院でもいくつかのレポートシステムで閲覧確認操作を要求している。但し、デジタル技術の問題とは別に、レポート確認後に相応しい医療的対応がなされたのでなければ閲覧確認記録の存在のみを言い立てても意味のないことであり、むしろ閲覧忘れを防ぐ方策を考えた方が建設的である。閲覧忘れを防ぐために、重要所見のあるレポートを画面上で強調表示することがあると聞く。しかし、個々の患者で何が重要であるかはレポート内容だけでは決められないことも多い。画面が強調表示だらけになってしまい、結局目的を達しないことになりかねないし、そのような事例もあると聞く。

 

<手術・生体モニター>

近年に限らず、医療に関する紛争には手術に関連したものが少なくない。内視鏡下手術ではビデオ撮影記録を残すよう求められていると聞いている。手術の正当性を裏付けるために、この画像記録に何らかの証拠性を持たせようと言う発想は理解できるし、手術野の画像は確かに核心的に重要であろう。実際に内視鏡下手術の画像記録が決定的な役割を果たした事件もあった。例としては、平成14年に昭和大学藤が丘病院泌尿器科で行われた内視鏡下左副腎摘除手術に際して、膵臓が誤って切除された事件がある。但し、手術はその前後を含めて捉えた方が適切な場合も少なくないように思われる。前記の事件でも、手術手技の問題(膵臓を切除した画像記録が残されていた)に加えて、術後管理の問題も患者の転帰に大きく影響を与えたと評価されている(昭和大学藤が丘病院泌尿器科における医療事故に関する外部事故調査委員会報告書より)。手術そのものが適正に行われても、時に望ましくない合併症は起こるものであり、その時には然るべき対応が必要である。手術自体の問題よりも手術室内で発生した、あるいはその後発生した合併症への対応が争点化した事例は、過去の訴訟でも散見されることである。そこで、画像記録以外に、手術の正当性を保証するために考慮すべきことはないかを少し考えてみたい。

 

慈恵医大青戸病院事件は多くの、嵐のような反響を巻き起こしたと記憶している。この事件で問題になった手術も内視鏡下手術であった。簡単に事件の経緯を紹介すると、2001年11月に慈恵医大青戸病院で腹腔鏡下前立腺全摘術を受けた患者が、術中の出血が原因で1ヵ月後に死亡したというものである。2003年9月に同病院の医師3名が逮捕され、事件は大々的に報道された。経験の浅い術者が指導者の同席を得ず、無謀な手術を行ったとして大きな非難を受けた。

「医療崩壊」の著者である虎の門病院泌尿器科部長小松秀樹医師によると、この手術には術前の手続き上の問題がいくつかあったものの、手術を受けた患者が死亡した決定的な原因は輸血の遅れであり、通常の輸血が行われていれば死亡には至らなかったと考えられている(同著より)。この本が刊行される前、事件の報道後間もなく、私は麻酔科、泌尿器科の医師とこの事件について話す機会があった。3人とも事故の詳細な報告書を読んでいた訳ではないが、全員の一致した意見は「この程度の出血(報道されていた出血量)で人が死んだ理由は手術自体にあるとは考えにくい」ということであった。手術野の画像は、特に何らかの合併症を生じた場合にはレトロスペクティブに見れば何らかの瑕疵を指摘できることが多いのが普通だと想像する。輸血の対応状況は手術野の画像では何も分からない。

手術室では術野以外でも多くの専門職が働いている。麻酔医の業務は極めて重要であり、それを支える各種モニター機器や検査機器も重要である。看護師、臨床工学技師も重要な役割を担っているし、時には放射線技師も関与する。手術室で何が起きたか、また起こったことに対して採られた対応はどうであったかは手術野の画像だけでは把握できない。そこで、手術野の画像に手術室内の画像や生体モニターのデータを加えて保存することが試みられており、その有効性が期待される。

ところで、意外に思われるかもしれないが生体モニターには不安定な要素が少なくない。心電図モニターは皮膚に複数の電極を貼って微弱な電気信号から心臓の電気的現象を視覚化する。全身麻酔下で動かない患者での精度は高いと言って良いが、患者が動き出すと信頼性は低下する。私が勤務する循環器内科病棟で、心電図モニターを装着した患者が歯磨きを始めたところ監視画面では心室細動(心臓が秩序だった動きを失い細かく震える状態、機械的には心停止状態を呈する。)の波形を呈し、これを認めた看護師が病室に駆け付けたところ、血相を変えて駆け付けた看護師を見て患者が驚いたという。この患者は幸い、自分が常に見守られていると感じて安心されたようだが、別の反応をされる可能性は十分ある。そして似たようなことは稀でない。脈拍数の表示は、心電図波形の二次微分から計算されていると想像するが、患者の心拍数の2倍の数値が表示されることがある。また、心拍の検知自体が不安定になることもある。動脈血中の酸素濃度を示すセンサーはしばしば不安定になる。指先に装着するタイプのものが多いが、マニキュアのために検知不能になることがある。動脈内に挿入するタイプの血圧のセンサーは、姿勢や体位の変化に対応して頻繁なキャリブレーションが必要であり、それなしには信頼できない。こういう話をあるネットワーク機器会社の方に話したらひどく驚かれたので、このコラムをお読みの方の中にも仰天される方がいるかもしれない。しかし、上記はいずれも医療従事者にとってはほぼ「常識」である。

なお、私の専門分野である循環器内科診療において、手術室での記録に該当する試みは行われていないと思われる。心臓カテーテル検査・治療という分野では動画が記録される。標準的な画像は512×512ピクセル、8階調/ピクセルで毎秒20コマ程度のデータ(毎秒5.2MB程度)が撮影時に発生する。撮影時以外には必要に応じてX線による透視を行い、記録として残す際に撮影を行っている。撮影に必要なX線照射は透視に比べると高い線量が必要であり、検査・治療の全てを撮影することは発生するデータ量以上にX線被爆(患者、医師の両方)の問題から現実的ではない。

 

<情報取得時の正確性>

デジタル技術で医療情報を扱う際に、「入り口」がしばしば問題であることは意識される必要がある。注射を行う際、指示内容と患者と薬剤が全て正しいことを照合するために携帯端末が使われることが病院では多くなってきた。照合後に実施の入力を行うことで注射の安全性が高まり、照合を経ずに実施は出来ないので実施記録としても信頼性が高まることになる。ようやく最近になって製造業者レベルで個々の注射薬にバーコードが付けられるようになった。これによって照合の精度が上がることが期待されているが、情報システム側での対応は「これから」という段階だと思われる。(最近のレビューとしては、野村総合研究所発行の『知的資産創造』10月号、特集「ヘルスケア業界の新潮流とビジネス機会」を参照)同様のことが医療用の各種材料についても該当する。(なお、内服薬については同様の手法での解決は困難である。)薬剤や診療材料は使用後相当年数が経過してから、その副作用のために使用履歴が求められることがある。こうしたことは使用時に予想できない。こうした使用履歴を記録、保存、管理するためには情報技術の利用が欠かせない。従って、以前このコラムで秋山理事が指摘されていたとおり、「全数記録」を可能な限り自動化して残すことが重要である。

ところで、注射は最終的には人の手によって行われる。体に埋め込まれる医療材料 -ペースメーカーや人工関節を思い浮かべていただければ良い- も医師の手によって埋め込まれる。つまり、バーコードでもRFIDでも良いが、モノにIDを振り、それを利用することは比較的容易であるが、モノとヒト(患者)を最終的に結び付ける行為を情報化する際には人手による作業が必要であり、時に曖昧さが付きまとう。先に述べた注射の実施入力も、照合後に注射を行わない、ということも原理的には可能である。当院では情報システム導入後の一時期に、照合・実施入力なしの注射実施が発生して対応に苦慮した。救急外来に心肺停止の患者が運び込まれた直後には、複数の医療者が同時進行で多くの処置を行う。薬剤も材料も使われるが、使用前に情報機器での照合することはないであろう。情報としての入力は、薬剤も材料の行為も、全て一段落ついた後の作業であり、予定通りの注射と同様には考えにくい面がある。医療行為や処置自体の適切さなど、記録に残しようもない。このような緊急事態でなくとも医療情報は「入り口」部分、つまりその記録が作成される/情報が取得される時に曖昧さを残さざるを得ず、またこれを認めない訳にもいかない。そうした業種は医療だけだとは思えない。

 

<フォレンジックということ>

医療におけるデジタル・フォレンジックを考える際、以前に本コラムで和田理事が書かれていたように“デジタル・フォレンジックは法的争いを解決する手段という面だけではなく、利用者の相互理解を深めるためのシステムという側面が見えると、社会的なニーズもより高まる”可能性は十分あると思われる。ふたつの側面は相互に進行するものであろうが、当面は紛争解決手段としての可能性への期待が高そうである。私は職場では医療安全管理者のひとりであるが、現場では、医療に対する不信感に由来する訴えに直面することが多いと実感するからである。但し、不信感を前提にした訴えは「理解はしたが納得できない」と言われ、対応に窮することが多い。また、いわゆる電子カルテの導入に関して、「医療裁判での証拠性を確認できる判例がなければ導入に踏み切れない」という声を耳にしたことがある。今のところ、カルテ開示や証拠保全段階では電子カルテ情報を紙出力することで対応されているようであり、裁判においてデジタルデータの真正性が問題になったという事例は聞いていない。

今年の7月に国立循環器病センターから「植込み型補助人工心臓治験症例に関する事例調査委員会報告書」が公表された。報告書中、提言の一部として電子カルテ導入が推奨されている。その理由は、検証対象となった紙カルテの見読性、真正性に問題があったことと患者情報の共有の必要性であった。前者は検証上の問題点であったようだが、決定的に検証に困難をきたした訳ではないようである。後者は事故に対する提言としては具体的裏付を欠いた印象が否めない。また、これとは別にモニター類の信頼性に関する問題とアラームのログデータの有用性の低さも指摘されていた。これら、重要なデータもそれを生み出す機器には「保全する」機能が十分備わっていないのが現状である。この現状は改まりつつあると思われるが、医療従事者の意識は未だ追いついていないと感じている。

医療におけるデジタル・フォレンジックを考える際、当面は「入り口」部分の曖昧さを認めつつ、医療への適用を慎重に、具体的事例に即して検討を重ねることが必要だと考えている。

 

<結語>

病院内医療以外の事柄については異なった議論が必要になると思われるが、私にはこれに言及する能力はない。例えば、医療施設をまたいだ医療情報のやり取りについては厚労省の「医療情報システムの安全管理に関するガイドライン」が多くをカバーしていると感じている。

技術的な事項には国境はなく、専門家当事者間で国際的に合意が図られていくことが少なくない。医療情報におけるデジタル・フォレンジックを考える際にも、そうした視点が必要と考えている。

【著作権は、伊藤氏に属します。】