コラム第872号:「地方創生の取り組み」
第872号コラム:伊藤 一泰 理事(近未来物流研究会 代表)
題:「地方創生の取り組み」
【Episode1】
僕の少年時代の原風景は、秋田県北部の農村風景である。そのころ暮らしていた家の窓から見えていた印象的な風景は、春の田んぼと農作業をしている農家の人たちある。
3月までの長い冬が過ぎて、雪解けの4月になると、北東北にもやっと春がくる。まだ、風は冷たいものの「水温む季節」である。春の農作業は、牛馬を使った代掻き(しろかき)から始まる。なかなか言うことを聞かない牛馬をなだめすかせて、木製農具を苦労しながら操るお百姓さんの姿を見ていた。
そのうち「耕運機」なるものが登場した。ヤンマーやイセキなどの農機具メーカーが開発した画期的な農業用機械だ。農家の人たちにとっては仕事が随分と楽になって作業効率アップになったようだ。
アメリカでは、より大規模な農場をトラクターで耕していたようだが、日本の田んぼは狭いので、耕運機がちょうど良いサイズの機械なのだ。僕の住んでいた地域でも瞬く間に普及していった。
農家は仕事が楽になった反面、耕運機の購入のため、農協への借金が多額のものとなった。
今、農業人口は減少し高齢化が進んでいる。
農林水産省が発表した2024年『農業構造動態調査」によると、個人農家や法人などの「農業経営体」の数は、前年比5.0%減の88万余となり、初めて90万を下回った。200万を超えていた2005年から一貫して減少が続いている。
個人で農業を主な仕事にする「基幹的農業従事者」数は、60歳以上の割合が8割で、高齢化が深刻なものとなっている。
日本の総人口全体でも、14年連続の減少だ。2024年は前年比55万人減となり1億2380万人になっている。つまり、政令指定都市1個分が毎年消えていく勘定である。
【Episode2】
今から15年以上前のことだが、僕は岩手県滝沢市に本社を置く暖房機器メーカーで働いていた。専門商社で北欧から輸入した暖房機器の営業をしていた創業者社長が一代で立ち上げた会社であった。昨年には創業50周年を迎えている。
だが、地方の中小企業ゆえ、製造工程は自動化が進んでなく、まだ多くの部分を人手に頼らざるを得ない。
工場の働き手の多くは、近隣の農家の主婦たちである。東京より2割ほど安い時給で、一生懸命に働くパートタイマーの人たちの労働環境改善が必要となっていた。その表情に、かつての耕運機を操るお百姓さんの顔を見た。
製品の接合部のわずかなバリもすぐに見つけて、手早くヤスリをかけ完成させる技を持っている。その後、通電させて、機械が立ち上がる音で不具合の有無を瞬時に判別できる人たちだ。
安い時給でも農家には貴重な現金収入だ。地元に立地している企業は自治体としても有り難い存在だったと思う。何度も滝沢市の市長さんがお見えになっていた。
ある時期、会社は予想外に高収益を上げ、社員全員に臨時ボーナスを支給することになった。普通ならボーナスが支給されないパートさんにも支給されることになった。社長曰く、「我々が他社より優れた製品を営業できるのは、パートさんたちが一生懸命に仕事してくれるからだ。その努力に報いなければならない。」
些少ながら特別ボーナスが出て、パートの皆さんは大喜びだった。
メーカーの収益構造は、いかに安い賃金で働いてもらい、高品質で他社を圧倒する製品を作れるかどうかだ。自社の人件費のみならず、部材等の仕入れ先にも、間接的に安い賃金を要求している仕組みになっている。でも、ただ安い人件費は、いずれ限界が来る。昨今の賃上げムードは、安い人件費の時代に終焉を告げているのだ。
【Episode3】
北海道東部は酪農が盛んな地域である。僕は、生乳輸送の新規顧客開拓の仕事でたびたび酪農家のNさんのもとを訪れていた。Nさんは、周辺の酪農家が廃業を余儀なくされる中で、事業規模を拡大して、地域有数の酪農家になっていた。
個人の年収は3000万円を超えるという。東京に出てしまった息子さんも戻ってくることになった。Nさんの牛舎では、自動搾乳機など最新の機械を積極的に導入し、少ない人員で多くの乳牛を育てていた。Nさんが出荷する生乳は消費者から高く評価されている。また、日本国内のみならず海外への輸出にも積極的に取り組んでいた。おいしい牛乳は、飼料作りがベースにある。Nさんは、牛が口にする牧草、飼料、そして水など、牛の身体を作るものがそのまま牛乳の味わいとなると言っていた。彼は、おいしさを追求する努力が現在の酪農家に不足しているとも言っていた。時代の波にうまく乗っただけと評する人もいたが、僕はそうは思わなかった。見えないところで一生懸命努力し、なおかつ彼の直観力に敬服していたからである。
【Wrap-up report】
日本の高度成長は、太平洋ベルト地帯に多くの工場を集積させることから始まった。当該地域が飽和状態となって、より安い土地や人材を確保するため、東北地方や中四国・九州への滲み出しが進んだ。国は、当時の通産省を中心に工場の地方移転を促進する政策を打ち出している。
最初の政策として評価されるのは、1964年の「新産業都市構想」だ。東北・北陸や中四国・九州を中心に15地域が指定された。
さらに、同時期に「工業整備特別地域」として鹿島(茨城県)など6地域が指定されている。
当時は、工業こそが日本経済を支える屋台骨だった。これらの政策目的は、大都市の過密を解消して、地方に大規模な工場を再配置する試みだったが、道半ばで方針転換を余儀なくされた。新興国の台頭で、日本の人件費は、たとえ地方であっても割高なものとなってしまった。さらに、1985年のプラザ合意により円高・ドル安が急激に進行した。このため、せっかくの工業団地に売れ残り区画が目立つようになり、新たな企業の呼び込み政策が次々と打ち出された。
事業当事者の地域振興整備公団(注)や関係自治体を支援するため、国は次々と新たな政策を打ち出した。テクノポリス法、頭脳立地法など、ハードからソフトへの流れに従った支援政策だった。ついには「オフィスアルカディア構想」なる政策が発表された。本社などの業務拠点機能の地方誘致策だったが、「なんちゅうネーミングなのか」と、あきれてしまった記憶がある。
それでも東北地方では、弘前市(青森県)北上市(岩手県)米沢市(山形県)などが手を挙げた。結果は想定通りであった。
思うに国の政策は頭でっかちで、地域の実情に合わないものが多い。それでもせっかくの「お誘い」ならばと、地元自治体は国の意向に沿って力を尽くしている。
今の時代、耕運機のような画期的なものはなかなか出ない。パートさんに特別ボーナスを出す太っ腹な経営者も少ない。やはり、しっかりと足元を見つめて、その地にあった産業を創出し、リーダーとなる人の努力や直感力を活用した地方創生の取り組みをすべきなのだ。
(注)1962年設立の「産炭地域振興事業団」が、その後の業務拡大により、1974年に「地域振興整備公団」に改組された。※ここまでは特殊法人であった。しかしながら、その後の行政改革の一環として、2004年に、独立行政法人化され、「都市再生機構(UR)」および「中小企業基盤整備機構」の2法人に分割されて、業務が引き継がれた。
以上
【著作権は、伊藤氏に属します】