第97号コラム: 林 紘一郎 理事 (情報セキュリティ大学院大学 学長)
題:「病院で考えたこと」
2009年の暮れから2010年初春にかけて、体調が思わしくないとは感じつつも、通常どおり仕事をこなしていた。しかし、とうとう1月末に顔面神経麻痺に襲われ、10日強の入院を余儀なくされた。
私は、もともと身体が丈夫なわけではないのに大病をしたことがなく、70年弱の人生で初の入院であった。そのため、見るもの聞くものがすべて目新しく、また治療は専ら点滴で行なわれるので、時間をもてあまし気味であった。
以下は、こうした環境下で入院初体験者が見た、情報セキュリティ(とフォレンジック)の雑感である。なお、読者の中に関係者がおられるやも知れず、入院先は明かさないことにさせていただく。
まず気がついたのは、電子化が予想以上に進んでいたことである。医師の診察結果はもとより、検査を受ければその結果が、看護師に血圧を測ってもらえばそのデータが、すぐに伝送され集積されていた。このうち必要な部分は診療報酬の計算にも使われ、退院時には支払い専用マシンに診療カードとクレジットカードを差し込めば、一切終わりであった。
また、予約システムも電子化されていて、退院後の予約日に、これまた専用マシンに診療カードを差し込めば、「○○時耳鼻咽喉科」(実は顔面神経麻痺は耳鼻科のテリトリーなのだ!)という予約確認票が出力された。この病院は新棟を立てたばかりなので、その際にシステムを一新したからだろうと思って知り合いに聞くと、大病院のシステムは似たり寄ったりとのことで、電子化の進展に驚いた。
ところが、その後電子カルテに関するある研究会に参加して、認識を改めることになった。なるほど病院内に閉じたシステムはそこそこに進んできたが、これらは相互に互換性がなく、組織を越え地域を越えて連携していくためには、むしろ壁になっているというのである。たとえば、診療報酬の請求事務は病院内ではすぐに終わるが、社会保険診療報酬支払基金での処理はバッチなので、実際に保険者にお金が支払われるのは2~3ヶ月後とのことであった。ある出席者が指摘した「日本人は部分最適化は得意だが、全体最適化ができない、最も典型的な例」との発言が、今でも耳に残っている。
しかも出席者の中に現職のお医者さんが複数いたため、議論はさらに深まっていった。システム化のためには出入力フォーマットなどの標準化も大切だが、実は薬剤名などに紛らわしい名称が多く、医薬分業で処方箋薬局で薬をもらうまでのプロセスで、間違いが起きる確率がかなりあるというのだ。
そこで最新入院体験者(?)の私も、質問を抑えることが出来なくなり、自らの体験を踏まえて具体例で教えて欲しい、と問うてみた。幸か不幸か、私が罹った病気は最もポピュラーなもので、処方も確立されたものとのことであったが、それでも薬品メーカーによって似通った名前の薬が複数存在することを教えられた。説明者によれば、これがポピュラーでない病気になると、医者でさえ専門を異にすると、間違った薬品が書かれていても、或いは誰かが書かれているのとは違った薬品をピック・アップしても、分からないだろうとのことだった。
新薬開発競争が熾烈になり、同業他社の競争優位を減殺することが有効な手段である限り、誤認しかねないような商品名をつけることは防ぎようがないから、これは仕方の無いことかもしれない。
しかし、実は私自身も「誤認」の被害に合うところだった。入院後4日目だったろうか、十分環境に慣れた頃、「林さん、この診察カードを持って外来に行ってください」と言われたので別棟に行ったところ、そこの看護師さんが「林さんですよね」と言いながら、訝るような視線を投げかけてきた。私も「そうですよ」応じつつ、違和感を覚えた。
数秒の沈黙の後、両者ほぼ同時に「同じ病棟の同じフロアに、もう一人林さんがいる」ことに気づいたため、この「患者取替え事件」は未遂に終わった。そこで改めて診察カードを見ると、私のものではなく、アナザー・ハヤシのものであった。
この事件があってから、私は点滴液の確認という、より重要な事柄に注意を払うようになった。私が受けたステロイド治療は、場合によっては副作用を伴う強いもので、入院するのは様子を見ながらタイミング良く投薬量を減らしていくことが主目的である(点滴だけなら通院でも出来る)。
点滴液を入れた透明の容器には、患者である私の名前や投与量、日付などが明記されている。手続きマニュアルによれば、看護師は点滴前に患者自身にフルネームを言ってもらうことになっているようだが、その実施率は50%程度であった。
しかも驚いたことに、前記の「事件」の前後において、実施率に変化はなかった。なるほど朝のミーティングで「事件」が報告されたらしい。翌日私のベッドの名札のところに、「同姓の患者さんあり」のラベルが貼られたからである。しかし名札は私の頭のところにあり、点滴作業の看護師さんが「必ず見る」位置、とは到底言えなかった。結局毎朝私の方から、フルネームを名乗ることにした。
病院というところは、一種の戦場ではないかと思う。救急の患者が運び込まれれば、それは文字どおり一刻を争う戦場になるが、そうでない場合も患者は静寂の中で病気と闘い、医療従事者はそれを助けてくれている。戦争に負ければ、残念ながら死者も出る。それを防ごうとする人々の献身的な努力は、賞賛に値する。
だから戦場には特別のルールがあっても良いと思う。一例としてプライバシーを採り上げてみよう。大部屋(6人)が満室だというので、私は差額を払って2人部屋に入ることになった。その分プライバシーを守る可能性は高まったが、私には同室者の人となりや病気の具体的中味が良く分かったから、同じことは彼が私について知ることにもなったと言えるだろう。
そして日が経つにつれて、私はプライバシーの価値よりも、お互いを知り、イザという場合に助け合えることの方に、より多くの価値を見出すようになった。なぜなら、深夜に万一の事態が生じたような場合、私は「隣は何をする人ぞ」と言って傍観することはできないからである。
この意味で、「当院は今後『患者様』という表現を、『患者さん』に改めます」と宣伝したこの病院の態度は、まっとうなものだと思う。病院の説明によれば、「患者様」という呼び方は、医療サービスの顧客とサービス提供者という関係を前提にしているが、患者の積極的参加なくして健康は回復できない。「患者さん」という呼び方に変えることによって、患者対医師という2項対立ではなく、両者の協力関係を踏まえた新しい関係を築きたい、というのである。
このような関係の中でプライバシーを捉え直せば、それが現行の個人情報保護法の枠内に収まりきらないことは明らかではなかろうか。片方で医療情報が最もセンシティブなプライバシーに関係していることは否定できないが、他方で医療に関する情報を戦場でどう生かすか、という配慮も欠かせないのである。
しかし、せっかく神様が与えてくれた「入院」という休息を、こんな風に「下手の考え休むに似たり」で過ごしていると、病気の根本的治療にはならないかも知れない。
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