第77号コラム:舟橋 信 氏((株)NTTデータ・アイ 顧問、IDF理事)
題:「リスクコミュニケーションとマスメディア」

最初に、リスクの概念等について、述べたいと思います。

国際規格(ISO/IEC Guide 51:1999)において、リスク(Risk)は、人の健康、資産及び環境に対して危害や被害(Harm)を与える可能性(Probability)とその重大性(Severity)の組み合わせ(Combination)として定義されております。

その語源は、オンライン語源辞書(Online Etymology Dictionary)等によりますと、ラテン語のriscumが基となり、イタリア語で「危険を冒す」と言う意味のriscareから、riscio(現代語イタリア語:rischio)、riscoと言った言葉を経てフランス語のrisqueとなり、17世紀中葉に英語に移入されてrisqueとなったようです。なお、参照する辞書や論文により、前記の綴りが異なっている場合がありますが、ここでは、今回参照した辞書等の綴りを使用します。

リスクと言う概念は、Deborah Luptonの著書「RISK」(1999年)によれば、中世において、航海の危険性、いわゆる神の行為(act of God)に対する海上保険に関連して使われ、数世紀を経て、現在用いられているように、災害、感染症、犯罪、投資などの様々な分野において用いられるようになってきたところです。

最近の大きなリスク要因は、新型インフルエンザではないかと思いますので、「マスク」の話題を取り上げ、関係官庁と国民とのリスクコミュニケーションの問題について考察したいと思います。

 

本年4月23日、米国疾病対策センターが、豚インフルエンザのヒトヒト感染により全米において7人の感染者が見つかったことを、翌日には、世界保健機関が、メキシコ市周辺で約60人が死亡した疑いがあることを発表しました。

日本政府は、直ちに空港等における検疫体制の強化を図ったことは報道された通りですが、4月28日付の厚生労働省の報道発表資料を見ると、感染国への渡航者に対するパンフレットに、①咳やくしゃみ等による感染を防ぐためマスクを着用する。②積極的に手洗いやうがいを行う。③発熱や咳などインフルエンザ様の症状が見られた時は、現地医療機関を受診する。などの注意事項が、列挙されており、感染予防対策としてマスクの着用が真っ先に取り上げられておりました。その頃、マスメディアも、マスク着用、手洗い・うがい積極的になどの記事を掲載し、国民に対して注意喚起を行っていたところです。この間、「マスク製造会社はストップ高」などと、関連株急上昇が、報道されておりました。(4月27日読売新聞電子版)

その後、5月8日のカナダから帰国した高校生と教諭3人の感染が確認され、カナダ滞在中にマスクをしなかったことが報道され、国民から非難を浴びたことは記憶に新しいところです。

更に、5月16日には、神戸市在住の高校生が、国内おいてヒトヒト感染したことが確認され、それが報道されると、大手ドラッグストアやコンビニに在庫していたマスクが売り切れたのも5か月前のことです。

5月16日付で、「『基本対処方針』の実施について」が新型インフルエンザ対策本部専門家諮問委員会名で公表されておりますが、この中で、社会生活上の取組みについてとして、「個人における感染防止策の徹底は極めて重要であり、引き続き手洗い、人混みでのマスク着用、咳エチケットの徹底、うがい等を行う。」ことが掲載されており、更に、「電車やバスの中等の換気が悪く閉鎖的な空間の中ではマスクを着用することで周囲の人の咳やくしゃみによる飛沫を防ぐ意味がある。また、他の人への咳エチケットとしてマスクを着用することが望ましい。」とされたことから、品薄となり、医療機関もマスクの入手が困難な状況となりました。

それ以降、厚生労働省は、感染者のマスク着用は奨励するものの感染予防に関しては医学的根拠がないなどとして、感染防止対策からスクの着用を外し、手洗い、うがい励行のみを取り上げております。(8月19日読売新聞電子版、9月の厚生労働省パンフレット、10月1日付基本対処方針)なお、外岡立人元小樽保健所長の著書「豚インフルエンザの真実」(2009年)には、「自己本位の発想を象徴するマスク騒動」として取り上げられている。

 

これらの一連の動きを見ると、マスメディアの報道により、国民の意識や行動が方向付けられていく様が見てとれます。国民の健康や生命に係わるリスクを、政府が国民に直接語りかける機会はほとんどないのが実情です。公衆衛生上、国民に伝えなければならないことは、マスメディアを通じて行われていることを考えれば、関係官庁や専門家と担当記者とのコミュニケーションが重要であり、記者の知識水準や伝える能力の向上も望まれます。また、各官公庁には広報担当者は配置されておりますが、リスクコミュニケーションの専門家は配置されていないのが実態であり、この面からの改善も必要ではないかと思います。

最後に、国立感染症研究所の岡部信彦感染症情報センター長が、感染症に関する記者との情報交換会を定期的に開催されており、先日参加させていただいたところ、新型インフルエンザの現状や学会発表前の研究内容などが発表され、記者の質問に丁寧に答えられていたのが印象的でした。このような地道な努力の継続が、大事な場面で生きてくるのではと思い、敬意を表する次第です。

 

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