第113号コラム: 佐藤 智晶 幹事(東京大学政策ビジョン研究センター 特任助教)
題:「医療分野におけるデジタル・フォレンジックへの期待-アメリカの一事例から-」

 本コラムでは、医療分野におけるデジタル・フォレンジックの適用可能性に関連して、アメリカの事例を紹介する。そして最後に、デジタル・フォレンジックへの期待を述べる。

 医療分野におけるデジタル・フォレンジックといっても、場面はさまざまであろう(中安一幸幹事「第107号コラム「医療」分科会第7期の活動にあたり」を参照)。診療はもちろん医学研究でも、インシデントレスポンスや訴訟が問題となる可能性を否定できない。本稿では、そのなかでも処方せんに関連する問題を取り上げる。
 アメリカでは、処方せんを利用した薬剤給付管理が進んでいる。薬剤給付管理とは、誤解を避けずにごく簡単に言えば、個人識別情報を除去した後の処方せんをデータ・マイニングして、その情報に基づいて医師に最善の薬剤処方を促すための重要な業務である。医師と患者はもちろんのこと、製薬会社にとっても薬剤給付管理は欠かせない。製薬会社は、データ・マイニングの結果に基づいて、医師に効果的な販売促進活動ができるからである。

 しかしながら、アメリカでは処方せんに含まれる情報に基づいて、不妊に悩む患者の自宅にサンプル薬が送付される事件があった。ニューヨーク・タイムズによれば、薬の名前と処方量、処方した医師の名前と住所、患者の住所と社会保障番号(Social Security Number, SSN)を含むすべての情報が、患者の同意どころか認識すらないままに一商品として売買されているという(Milt Freudenheim, And You Thought a Prescription Was Private, N.Y. Times, Aug. 9, 2009)。

 上記事件は、少なくともいくつかの州の法律に違反する事案である。アメリカは連邦制度を採用する国家で、「法」といっても州法と連邦法の2つがある。そして、州と連邦には患者の診療情報等が不正に利用されないように一連の規制があるが、いくつかの州では個人識別データを含む処方せんについて、商業目的の譲渡と使用を禁ずる立法が行われている(see, e.g., Prescription Restraint Law, 2006 N.H. Laws 328, codified as N.H. Rev. Stat. Ann. §§ 318:47-f & 318:47-g & 318-B:12, IV (2006))。要するに、いくつかの州は、商業目的で処方せんを譲渡または使用する場合には、原則として処方せんの個人識別データの除去(いわゆる匿名化)を義務づけている。もっとも、あとで説明するように、州の法律については患者のプライヴァシーを保護するという目的に照らして過度広範な規制であるという理由から、合衆国憲法に違反する旨の反論が提起されている。

 他方、連邦法である『米国再生・再投資法』の一部(Health Information Technology for Economic and Clinical Health Act, HITECH in the American Recovery and Reinvestment Act, ARRA of 2009 (Pub. L. No. 111-5, 123 Stat.115 (2009))は、診療情報等の売買を規制し、売買によって損害を被った者を救済する、という新たな枠組みを提示しようとするものである。具体的に言えば、規制対象者は個人識別可能な診療情報等を売買することが禁止され(同意がある場合に加えて、研究、公衆衛生、および診療目的については例外)、販売促進目的の利用も制限され、さらにはアクセス記録の保管と違反の公表を義務づけられた。

 極めて重要な点であるが、米国再生・再投資法による規制は、少なくとも次の3点で、従来の連邦法上の規制(HIPAA Standards for Privacy of Individually Identifiable Health Information, 45 C.F.R. § 160.103 (2006))とは一線を画するものである。第1に、米国再生・再投資法の規制対象者には、従来対象外であった医療機関以外の州際通商(interstate commerce)に従事する組織と個人まで含まれている。第2に、米国再生・再投資法では、州の司法長官による取り締まりが認められ、違反時の課徴金は原則として違反行為1つにつき100ドル、違反の程度によっては最大150万ドルとされた。さらに、米国再生・再投資法では、連邦保健省に支払われた課徴金の分配によって、被害を受けた者の救済まで図られるようになった。 このように、処方せんと診療情報等の売買に関する一連の規制は、州法と連邦法の両方で行われているのである。

 上記一連の規制のもとで争われたのが、先に言及した州の法律の合憲性である。州の法律の合憲性は、州憲法と合衆国憲法で問題となるが、ここでは後者のみを扱う。本コラムでは詳細の説明を避けるが、薬剤給付管理業務に従事する原告らは、州の法律が合衆国憲法に違反するとして、法律の執行差し止めを請求した。合衆国憲法の第1修正によれば、言論・表現の自由が保障されている。原告らは、州の法律によって薬剤給付管理業者、製薬会社、そして医師との間の情報の流通(言論・表現)が不当に妨げられ、それは余計な医療費を払わされる患者にとっても国民にとっても不利益である、と主張した。

 州の法律の合憲性をめぐる訴訟の核心は、州の法律が目的を達成するための手段として合理的なものか、という点にある。原告らは、州の法律が患者のプライヴァシーを保護するという目的に照らして過度広範な規制である、と主張している。文面上明らかであるが、州の法律では、個人識別情報を除去された処方せん、いわゆる匿名化された後に処方せんを譲渡や使用することまで規制されているわけではない。しかしながら、少なくとも適法に匿名化されていることを証明する手段がないとすれば、州の法律は、あらゆる処方せんの解析、譲渡、そして利用に影響を及ぼすことになる。それは、製薬会社の販売促進活動を妨げるおそれがあるだけでなく、医師にとっても医薬品の適正な使用についてのフィードバックを受けられなくなる可能性があり、結局のところ患者に不利益をもたらす事態も十分に予想できる。関係者の言論・表現を不当に侵害する州の法律によって、良好な医療が妨げられる、というわけである。

 他方、患者を支援する団体は、州の法律で規制されない場合には処方せんの売買によってプライヴァシーが侵害される、と主張している。プライヴァシーの侵害を裏付けるものとして挙げられているのは、そもそも匿名化が極めて難しいという現実である。例えば、個人識別情報に代わる対応コードを利用し、対応コードへのアクセスを適切に管理制限していても、公開されている出生記録を組み合わせれば、ある処方せんは個人識別性を帯びるという。また、特別の属性を持った個人や著名人の個人識別性を除去することは難しいと指摘されている。さらには、匿名化技術と競うように個人再特定のための技術は格段に進歩していて、公開されている個人情報を利用すれば効果的に個人を再特定することができるのではないか、という懸念が生じている(以上の患者の懸念については、次の書面を参照した。 See Brief for the Electronic Privacy Information Center, EPIC as Amicus Curiae Supporting Defendant/Appellant Kelly A. Ayotte at 6-10, IMS Health Inc. v. Ayotte, No. 07-1945 (U.S. Aug. 20, 2007))。匿名化された処方せんが適切に使用されていることを確認できないとすれば、実際に処方せんの不正利用が報道されている以上、患者が自らのプライヴァシーについて懸念を抱くのも無理はない。

 上記は、処方せんをめぐる問題の一例に過ぎないが、デジタル・フォレンジックの可能性を感じるには十分だと思われる。わが国には、アメリカのような規制が今のところ存在しない。適法な匿名化の方法が具体化され、しかもその実施がデジタル・フォレンジック技術等で証明できればよいのに、そう考えるのは筆者だけだろうか。匿名化といっても、完全な匿名化は極めて困難だろう。それにもかかわらず、患者の不安は、製薬会社や医薬品を処方する医師に向けられるおそれがある。いたずらに相互不信を起こして対立関係を深め、規制ばかり強化されることは好ましくないが、規制があるなら履行を確保しなければならないし、そもそも規制以前に、相互信頼を得られる手段として「法的証明技術」が必要であることから、デジタル・フォレンジックに期待する。

 最後に、アメリカの学者の言葉を借りて結びとしたい。

 「われわれは、司法制度のなかにフォレンジック・サイエンスをぜひとも必要としているが、そのためにはフォレンジック・サイエンスを信頼できることが不可欠である。・・・フォレンジック・サイエンスが適切な科学的根拠に基づくときに、フォレンジック・サイエンスは、より一層われわれの信頼を得るものとなる。われわれの司法制度は、まさに科学的根拠を求めている。」(Jennifer L. Mnookin, Clueless ‘Science,’ Opinion, Los Angeles Times, Feb. 19, 2009)

 この言葉は、フォレンジック・エビデンスの分野で著名な研究者、カルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)ロースクール教授のジェニファ・L・ムヌーキン氏によるものである。アメリカでは、フォレンジック・サイエンスに対する注目が高まっていて、2009年に全米科学アカデミー(National Academy of Science, NAS)は、フォレンジック・サイエンスに関するレポート(NAS, Strengthening Forensic Science in the United States: A Path Forward (2009))を公表した。その直後に、ムヌーキン教授は、司法制度におけるフォレンジック・サイエンスの役割に大きな期待を込めて、さらなる研究によってその質が担保されるべき、という見解を新聞紙上で明らかにしている。

 医療分野におけるデジタル・フォレンジックについても、社会的に受容されるためには専門家の皆さんの力が必要不可欠である。研究が進み、研究者同士のピア・レヴューによって研究の質が担保され、さらにデジタル・フォレンジック研究会のガイドライン等を介してデジタル・フォレンジックの役割がさらに拡大することを希望してやまない。

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