第157号コラム:辻井 重男 理事 兼 顧問(中央大学 研究開発機構 教授)
題:「情報社会の教養と人材育成―デジタル・フォレンジック研究会会長退任に当たってー」
昨年、情報処理学会誌の創立50周年記念号に、情報セキュリティ、情報倫理、電子行政、社会・生活など多岐にわたる内容の論説を僅か3ページにまとめて寄稿するよう依頼された。日頃、気儘に領域侵犯をして来た身の因果と観念し、「電子行政―総合科学―情報社会の教養―人材育成」を情報セキュリティの視点から「起承転結のストーリー」で書くことにした。
小文では、唐突だが、上記の「転」から入ることにする。太平洋戦争の敗戦は、昭和17年6月のミッドウエイ海戦で壊滅的打撃を受けたことで決まったが、そんなことは極秘とされ、(今なら、当局の検閲が厳しくてもソーシャル・メディア等で知れわたるだろうか)、ミッドウエイ海戦の直後、著名な文化人達が勢揃いして、座談会「近代の超克」が催され、雑誌「文学界」に掲載されたことはよく知られている。
昔、その記録を読み、
小林秀雄「アメリカの機械文明は大和魂には勝てないのだよ」
下村寅太郎「いや、機械を作った精神が問題なのだ」(西田幾多郎門下の数理哲学者)
というやり取りを鮮明に記憶していたつもりで、情報処理学会誌に引用(?)したところ、ある小林秀雄フアンから、「小林秀雄はそんなことは言っていない」という指摘を頂いた。小林秀雄は、私の卒業した日比谷高校の前身である東京府立一中(都立ではない)の大先輩で、日本における文芸評論を確立した巨人である。
そこで、座談会記録を読み直してみると、確かにそんな表現は見当たらない。並み居る文化人の多くが、戦争を賛美、あるいは理論武装する発言をしていたので、私の記憶が勝手に、小林秀雄をその仲間に入れてしまったのかもしれないが、それにしても不思議なことである(どなたか詳しい方がおられたら教えて頂きたい)。
小林秀雄は、戦争というものを歴史の宿命と考えていたようであるが、私が、大学で講義を受けた伊藤聖など多数の著名な評論家や文化人達が、真珠湾攻撃の成功に、「これでモヤモヤが晴れた、スッキリした」というような能天気な感想を述べていたのは事実である。
かの大哲学者西田幾多郎すら、昭和15年、八紘一宇(世界は神武天皇を頂点とする一つ屋根の下)の意義を説いている。
それらの人たちの中には、戦後、そ知らぬ顔をして、ジャーナリズムに顔を出していた人もいれば、反省して田舎に引っ込んだ人など様々である。小林秀雄は「悧巧な奴は反省すればいいさ。俺は反省なんかしないよ」と嘯いていたようだ。
他方、戦争を起こした指導者や軍人たちの多くは、勝てると思っていたわけではなさそうだし、また、サラリーマンだった私の父親も、昭和17年前半の連戦連勝の頃から「この戦争は負ける」と口癖のように言っていた。そういう現実感覚を持った人は少なくなかったのである。
結局、文化人・評論家などの多くは、経済と技術の現場に疎く、日本と米英の経済力の差が一桁以上違うという現実を認識せず、観念論を振り回していたのだが、始末の悪いことに、こういう人々は表現力が豊で、国民への影響が大きいのである。当時小学生だった私は、高村光太郎(だったと記憶しているが)の「姿なき入場」という詩の一節、
「敵高射砲弾は汝が機の胴体を貫きつ、汝にっこりとして天蓋を押し開き、仁王立ちとなって僚機に別れを告げ、天皇陛下万歳を奉唱、若き血潮に大空の積乱雲を彩りぬ」
に感激したものである。高村光太郎は、戦後反省して、世間に顔を出さなかったと聞いている。
戦争の話が長くなったのは、私には、電子行政について総合的な視野から現実を見ずに、「プライバシーは絶対侵すべからず」を観念的に主張する議論が、戦時中の文化人達のそれと重なって聞こえるからである。
国民は、行政に対して、プライバシー侵害と併せて、もう1つ、年金、医療・介護、災害時の救済などに関する行政の対応にも不安を持っている。年金の手続きを忘れたばかりに、受け取れる筈の年金が貰えず、老後に不安を抱える人は少なくない。電子行政を推進し、自分の年金の状況を、出来ればプッシュ型で、少なくとも、マイ・ポータルへの簡易で信頼性の高いアクセスで確認できるようにする必要がある。
介護について言えば、ある自治体では、勤務時間の殆どをパソコンに向き合い、肝心の要介護者に向き合う時間が僅かしかとれなかった介護師が、電子化の推進によって、逆に、勤務時間の殆どを要介護者に振り向けることが出来るようになったという例もある。災害時の生活支援に対しても、自治体行政の電子化は不可欠であるが、今度の災害で、どれだけの人が、それを実感出来ただろうか。
こうした諸々の現実的不安の解消と、プライバシー侵害への不安の解消とは矛盾相克する面が多いが、それを超克するのが、デジタル・フォレンジックをはじめ、暗号技術、法制度、市場・経営、情報倫理や人間行動論を含めた情報セキュリティの使命である。
さて、標題に挙げた情報社会における教養論議に入ろう。日本における教養は修養に由来し、大正から昭和にかけては、個人的人格形成という面が強かったようである。太平洋戦争後は、新制大学において一般教養が普及したが、1990年代、効果なしと判断され教養の没落という文化現象が起きた。しかし、21世紀に入り、教養の重要性が再び認識され、様々な教養論議が展開されている。かっての個人的人格形成という視点からではなく、社会の中での自分の位置づけという観点からの議論が多いようである。
私は、文理にまたがる情報セキュリティ総合科学を提唱してきたことと上記の議論を踏まえて、情報社会における教養のあり方を、自分のことは棚上げして、次のように考えている。
情報社会とは、一言で言えば、情報共有が浸透する社会である。情報共有による快適さ・便利さと個人情報・機密情報の漏洩や違法・有害情報の氾濫などは表裏をなしている。これからの社会は、このような情報共有による様々な矛盾を軽減し解消していかねばならない。
そこで、私は、「情報社会に求められる教養とは、遍在化する矛盾相克を超克するための総合的止揚力を涵養すること」
と考えている。ここで、総合的という意味について考えておきたい。
デジタル・フォレンジックも情報セキュリティもいわゆる文系と理系が連携して解決すべき課題が多い。それに加えて、理念・理論・学問と上に述べた現実認識・現場感覚を融合させて立ち向かわなければならない。これを、X-Y平面で表せば、文理をX軸(横軸)とし、理念・現実をY軸(縦軸)として、その原点当たりで、ダイナミックに活動できる人材が求められているということである。
勿論、人の能力や性向は多様であるし、この道一筋の人材も多数必要である。例えば、超楕円暗号理論で世界的業績を挙げようと思えば、他の事に興味を示している時間はない。
しかし、情報化・電子化を推進・指導する人々や、世論に影響を与える文化人・評論家・ジャーリスト達には、上に述べた教養が求められるのではないだろうか。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さて、本研究会発足以来、会長を務めさせて頂き、永らくお世話になりました。余りお役に立てなったのではないかと危惧しておりますが、佐々木新会長は、この道の大家で、正に上に述べた人材です。新会長の下で、本研究会が発展し、社会基盤としての重要性が日に日に増しているデジタル・フォレンジックが普及進展することを祈念しております。
蛇足;会長辞めた後、何をする?
IDFの会長辞めた後、何をするかというほど、IDFに時間を割いてきたわけではありませんが、一つずつ、こうした仕事が減っていくことは、永年、マネジメント的業務に追われ、じっくり研究に専念できなかった身にとっては、嬉しいことです。
今年の3月まで、ポスドク3名を率いて、総務省のプロジェクト研究、SCOPE「量子コンピュータの出現に対抗し得る公開鍵暗号の研究」をやってきましたが、今年から、経済産業省からの委託で、医療・介護における個人情報の保護と活用の両立を目指す研究を、ポスドクに加え、アクテブ・シニアー達と進めております。
今後とも、よろしくお願いします。
※佐々木新会長への交代は、5月20日(金)IDF第8期総会議決を経てとなります。
【著作権は辻井氏に属します】