第237号コラム:小向 太郎 理事(株式会社情報通信総合研究所 法制度研究グループ 
部長 兼 主席研究員)
題:「遠隔操作ウィルス事件が残した宿題」

 遠隔操作ウィルスによる犯罪予告が誤認逮捕を生んだ事件には、多くの人が衝撃を受けたと思う。IDFコラムでは、既に本研究会副会長の安冨潔教授が取り上げられ、捜査機関のリテラシーを上げる必要性について述べられている。適確な指摘であり今後取り組むべき課題であることは疑いがない。それはそれとして、この事件の報に接してから、何となく落ち着かない気分を捨てきれないでいる。本件によって、今まで自分が十分考えてこなかった課題が、改めて問いただされているのではないかと感じるからである。

 まず、こういう言い方をするとお叱りを受けるだろうが、今回問題となったのは、ある種のたちが悪い「いたずら」である。単純な情報発信のみで成立する愉快犯であるが故に、証拠もネットワークとPC上に残されたデジタル情報に限られている。もし、金銭的な利益を得たり、人の生命身体を傷つけたりしていれば、犯人を特定する手がかりはもっと多くなったはずだ。冷静に考えれば、こうした情報発信を全て取り締まるのは、もともと難しいことが分かる。もちろん、深刻な被害につながる犯行予告があることは否定できない。しかし、取り締まりの対象をどのような範囲にすべきかは、議論があり得るであろう。

 次に、本件を契機として、匿名化技術をどのように考えるべきかと言うことが、クローズアップされている。犯人が使ったとされるTorは、情報発信を匿名化するシステムとして以前から知られている。暗号技術によって匿名化した上で数カ国のサーバを経由するため発信元の追跡が難しいとされ、海外では政府の弾圧を逃れて民主化運動を行うために使われたという報道もある。匿名での情報発信手段が望まれる場合があることは確かであろう。ところで、わが国にはかつて、Torなどよりよく知られた匿名情報発信システムがあった。アクセスログを記録していなかった時代の2ちゃんねるである。裁判所が匿名掲示板の運営者に対して、そこで行われてた名誉毀損や著作権侵害の責任を厳しく課す判断をしたため、現在ではアクセスログが保存されるようになっている。この判断の評価はともかくとして、ログ保存をしない本当の意味での匿名掲示板は、わが国では実質的に禁止されているのである。Torのようなシステムについては、掲示板のように運営者が内容にコミットする可能性がなく訴訟提起も難しいため、現在までこのような議論があまり行われてこなかった。犯罪に利用され追跡を困難にしてしまうのであれば、規制を検討すべきだという意見も出されている。しかし、実効性のある規制には国際的な協力が不可欠であること、表現の自由を制約してしまう可能性があることなど、簡単に結論を出せない問題である。

 最後に、犯罪捜査に関する法的論点の立て方の問題がある。刑事訴訟法は、実体的真実主義と人権の保障を、その主要な目的とする。そして、解釈法上の論点の多くは、「真実を究明するために脅かされる人権をどのように保障するか」というものである。今回の事件でも、犯罪捜査が人権を侵害する結果になっている。しかし、従来は、犯罪捜査を積極的にすればするほど、手法を駆使すればするほど、人権侵害の危険は高まるという感覚があった。捜査機関は真実究明を一生懸命やるものなので、やり過ぎを監視するのが解釈学の役目だというのが暗黙の了解になってきた。これは、刑事訴訟法の教科書を読めば、納得して頂けるのではないかと思う。一方で、「捜査機関に真実究明を徹底させるにはどうしたらよいか」という論点はあまり議論されていない。捜査機関がPCの検証をきちんとしてウィルスの存在を確認すべきだったというのは、この「真実究明を徹底させる」議論であると思う。今後は、こうしたことも、法的に重要な論点となるのであろうか。これが刑事訴訟法全体の課題となるのか、デジタル・フォレンジックという限定された分野の課題なのかも、実はよく分からない。今回の事件は、このような命題についても、宿題を残しているように思う。
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