第376号コラム:守本 正宏 理事(株式会社UBIC 代表取締役社長)
題:「エキスパートの暗黙知を学ぶ人工知能技術」

 前回の私のコラムで“干し草の中の干し草を探す”というテーマをお伝えしたと思いますが、フォレンジック調査やディスカバリ支援作業においては、データを読んだだけでは証拠かどうかを判断するのが極めて難しいものが少なくありません。しかし、経験のあるエキスパートはそれでも何かを感じ取り、そのあいまいな断片から仮説を立て、さらなる証拠を見つけ出し、仮説の一つ一つを立証しながら、真実にたどり着くことができます。

 しかし、ここで問題なのは、その何かを感じ取る事ができるエキスパートがそれほど多くないということです。プロジェクトの進捗は、その数少ないエキスパートの処理能力に依存することになりますが、エキスパートも人間ですので、処理能力に限界があります。疲れれば判断にムラが出ますし、もちろん休憩も必要ですので、その間は処理できない案件が増えていきます。

 このような課題を前に我々は、このエキスパートの代役を人工的に創造することはできないか、と考えました。しかしもちろん、それは簡単ではありません。
 そもそも、エキスパートは一体何を見て、それを怪しいと判断するのでしょうか?キーワード?行動そのもの?実は、かなりの場合それは本人にも説明できない、本人の経験に基づく、いわゆる“暗黙知”なのです。もし、この暗黙知を活用することができれば、エキスパートの代役を人工的に創造することができると考えました。
 そして、私の会社では独自のアプローチで暗黙知を学習できる人工知能の開発に取り組み、その実用化に成功いたしました。技術の詳細は省きますが、この人工知能を医療の現場で活用した実際のプロジェクトの例をご紹介したいと思います。

 このプロジェクトは、電子カルテに医師や看護師が記載している自由記述のテキストから、近い将来患者に起こりうる有害事象の予兆を、人工知能によって見つけ出し防止する、というものでした。
 プロジェクトを共同で実施した病院では、カルテの自由記述の中にその予兆が隠されていることは以前からわかっていたものの、読む人も、入力した本人でさえも確信が持てず、それを判断できるのは、少数のエキスパートのみでした。しかし、電子カルテの膨大なドキュメント数を、少数のエキスパートが全部目を通し判断することは実質不可能であり、結果として多くの有害事象の予兆を事前に見つける事は非常に困難でした。時間ばかりかかり、本来必要な患者さんと寄り添いながら行う医療業務ができなかったのです。

(実は読者の中にも同様な経験をお持ちの方がいるはずです。例えば、営業の現場での出来事として例をあげます。

 営業マンの営業レポートにはお客様の発言が比較的正確に記述されていました。しかしながら、そこからお客様からのクレームや要望を、レポートを作成した営業マン本人が読み取れずに、クレームや要望に対する適切な対応ができていませんでした。その結果、クレーム処理やビジネスチャンスを逃すといった結果になりました。それを知った営業マネージャーは、その営業マンに「なぜこの発言を聞いていたにも関わらず、もっと早く対応しなかった!」などと慌ててその営業マンに対し問いただしました・・・。ただし、本来は営業マネージャーもレポートが上がってきた時点で気づくべきだったのですが、日々の多くの業務をこなしながら、同時に多くのレポートをきっちり読むことが物理的に難しく、営業マネージャー自身も見逃していたのです・・・。
 よくある営業現場でのシーンですが、まさにそれと同様な現象が様々なビジネスシーンで起きているのです。) 

 このプロジェクトの成功の可否はそのような有害事象の予兆を、人工知能が本当に正確に見つける事ができるのかどうかにかかっていました。

 その時の教師データの例が以下のものです。(以下、電子カルテ内のコメントは公開用に手を加えてあります。) 
 
 「今日はどこに連れて行かれるの?怖いから触らないで。」(教師データ)

 この教師データを有害事象の予兆として人工知能に学習させた結果、人工知能が選んだものは以下のものでした。

 「今日はお土産を持ってきたわよ。」(人工知能が新たに見つけたもの)
 「カテーテルを抜いた。」  (人工知能が新たに見つけたもの)

 読者の方はすでにお気づきかと思いますが、教師データと比較してキーワードは違うし、そもそも行動そのものも違っています。怖がっている行為もお土産を持ってきた行為もカテーテルを抜いた行為も全て違うものです。しかし、人工知能はエキスパートが“これは怪しい”と思う感覚:暗黙知を学んで、新たな違う事象についても正しく判断しています。この結果にはこれまで従来の検索技術でデータ解析に取り組んでこられた病院の先生方も驚かれていました。概念実証実験は大成功です。

 ちなみにこの人工知能を学習させるときには、あえて理由(なぜこのデータを有害事象の予兆だと選んだのか。)を教える事は一切行いません。ただ教師データを人工知能に読み込ませるだけです。しかも学習に必要なデータはほんのわずか(場合によっては一つ)で十分です。

 このような人の感覚を学べる人工知能の応用技術は多岐にわたります。高度なIT技術が発展してきた昨今においては、ビッグデータを有効活用するために、逆に人の勘などを活用したほうが便利な事が多いこともわかっています。

 デジタル・フォレンジックから派生してきたこのような技術は多くの人々に活用され、今後世界をよりよく変えていくことになると私は考えています。

【著作権は、守本氏に属します】