第400号コラム:小向 太郎 理事(株式会社情報通信総合研究所 取締役 法制度研究部長 主席研究員)
題:「インターネットと『知る権利』」
インターネットによって、人々の知り得ることが広がったことは、疑う余地がない。以前なら、どうやって調べればよいのかわからなかったような疑問が、検索エンジンにキーワードを入れるだけで氷解してしまう。思い返せば20年前には、海外調査で大量の政府資料を集めて持って帰ってきていた。紙を詰め込んだ荷物はとても重く、飛行機の積載可能重量を超えてしまうこともあった。現在では、たいていの資料は日本にいながらにして、瞬時に入手することができる。
ところで、憲法上の人権のひとつとして、「知る権利」があるとされている。現代社会においてはむしろ情報を受信できるかどうかが多くの人にとって決定的な重要性を持つことから、表現の自由と密接不可分なものとして認められているものである(博多駅事件最高裁決定(最決昭和44年11月26日)等)。世界人権宣言の第19条でも、表現の自由には、情報及び思想を求める(seek)ことと受ける(receive)ことが含まれるとされている。
例えば、国家に対して情報の開示を求めることは「知る権利」に基づく典型的な要請であり、それを実現する制度として情報公開制度が整備されている。ただし、私人間の適用については「国民の知る権利を報道機関と市民との関係に直接適用すれば、国民の知る権利が拡張される反面、報道機関の報道の自由が制約されるおそれが出てくる(芦部信喜『憲法』(岩波書店、第六版、2015年)115頁)」とも指摘されている。
前回のこのコラムでは、インターネット上の「忘れられる権利」について、表現の自由や知る権利との関係でもさまざまな論点があり得ると書いた。現在議論されている「忘れられる権利」には、少なくとも次のような、それぞれレベルの異なる論点があるように思う。
(1)一度は適法に公表できた(されるべきだった)情報の公開が、時の経過によって違法と評価されるのはどのような場合か
(2)一定期間経過した情報について、サイト管理者(SNS、検索事業者、ISP等)に、削除請求を認める立法を整備すべきか
(3)検索サービス提供事業者は、どのような場合に検索結果を削除する法的義務を負うのか
このうち、(1)(2)は、表現の自由や知る権利に、直接関わる問題である。しかし、(3)について、表現の自由や知る権利の問題として議論すべきかどうかは、多少の疑問がある。だれの権利が誰によって制約されるのかが、やや曖昧になるからである。例えば、国民の「知る権利」や表現者の「表現の自由」を検索サービスに関して主張することは、事業者に対して「公平適正な検索結果を提供する義務」を求めることにならないのか。また、検索結果に「表現の自由」が保障されるのであれば、表現内容である検索結果に責任が問われることにならないか。
検索エンジンの仕組みを考えると、全ての検索結果の内容について責任を問うことは現実的ではない。検索サービスの社会的有用性を考慮すると、検索表示が機械的に自動処理され、かつ、ある程度の公平性を担保する運営方針が取られているのであれば、いわゆる「媒介者」としての(権利侵害を知りまたは知るうべき場合で、技術的に対処が可能なときに作為が求められるような)、義務を負うとするのが妥当であろう。
これをさらに一歩進めて、検索サービスは特に国民の「知る権利」に資するものだから、安易に削除を求めるべきではないという主張もあり得る。しかし、こうした考え方を突き詰めると、検索サービスに新たな義務や責任を追わせることにつながりかねない。もしそうなれば、むしろインターネットの自由が損なわれてしまう可能性がある。どのような情報が「忘れられるべき」ものなのかということと、検索サービスを法的にどのように位置づけるかということは、やはり別の問題として考えるべきであろう。
【著作権は、小向氏に属します】