第178号コラム: 野津 勤 幹事(株式会社システム計画研究所 特別顧問)
題:「“想定外”は禁句か?」

“想定外”は、すでに丸山監事がNo.173号で話題にされてます。内容的には繰り返しになり冗長ですので恐縮ですが、私にはそれだけ気になったフレーズです。

3月以降、“想定外”にヒステリックに反応するマスコミの言葉狩りに嫌悪感を覚えているのと並行して、結果責任のある立場からの“想定外”の発言が“責任回避あるいは対策をしていなかったことへの言い訳や正当化”をにじませていることも感じられます。
暫く前には“想定内です”と台詞も流行りました。
FTA(Fault Tree Analysis)とか色々の手法がありますが、コラムなので気楽に“想定するとは”を考えてみました。と言っても「下手な考え休むに似たり」でしょうけど。

“想定外”を言うには、「“想定する”とは何をすることか」を言う必要がありそうです。
広辞苑によれば、想定とは「ある一定の状況を仮に想い描くこと」とあります。
想定すなわち発生可能性のある事象を思い描いて、それへの対策を考え、その対策を構築し、実施する、と言うPDCAのサイクルが考えられます。
ある事象に対応するというのは想定していたことであり、対策があるならば想定していたことであり、想定外に対策をするのは論理矛盾と言えます。
「何が起きても大丈夫にしろ」というのは、無限の事象に対応するには、無限の資源(時間、費用)を要する事であり、解不能になってしまいます。事象を想定しなければ対策はとれません。実際の対策の構築(設計・製造)者にとっては、環境条件は所与のものであり、“想定外”の事象に対策することは期待されていません。オーバースペックなものを作ったとする評価になります。
役割によって、“想定外でした”と言い易い立場と言い難い立場があります。

“想定すること”と一般的に言えるのは、ある事象Xの発生メカニズムと発生可能性を決定できること(タイプA)でしょう。その中で更に、
対策が必要な高い発生確率がある(タイプA1)、
ほとんど無視できる発生確率である(タイプA2)、
起こりそうではあるが発生確率は不明である(タイプA3)に分類できるでしょう。
タイプA2は去る9/24の人工衛星の落下でしょうか。シェルタに避難したという様な対策が取られたニュースは目にしませんでした。想定は有っても対策をしない例です。
タイプA3は、隕石の落下みたいなものでしょう。かつて小さなこぶし大の隕石が島根半島の民家の居間に落下したことがありましたので、発生確率は計算不可であってもゼロではありません。余談ですが、その後「隕石まんじゅう」がみやげ物屋に並びました。形状・色はご想像下さい。
A2もA3も発生確率・発生時の予想被害・コストのトレードオフで取るべき対策が決まるものでしょう。

次の“想定すること”は、発生メカニズムは説明できないが、発生しないことの証明ができない事象(タイプB) の列挙でしょう。
取るべきアプローチがタイプAなのかタイプBなのかは、それぞれの領域で決めるべきでしょう。原発ではタイプBが期待されていた、と言えます。実際は?

真の意味での“想定外”(タイプC)とは、例えばサスペンスドラマに出てくる「まさか、家族の中に犯人が」と言うやつですね。犯人検出関数のパラメータに家族が入っていないことです。これは、想定する役割の人・組織の経験や想像力に依存します。結果論で「起きたじゃないか、なぜ対策していないのだ」といっても、“コロンブスの卵”で誰も考えつかなったパラメータは入れようがありません。そのための専門家なのでしょうけど、結果を見てしまうと苦しい心情になりますね。
個人的経験ですが、医学部の「画像診断学」の授業に参加したことがあります。画像上は明確に映っているのに、学生は誰も異常を指摘ができませんでした。異常の検出には医師の経験による想像力に強く依存していることを感じました。気道上の老人が飲み込んだ入れ歯の破片像、大工さんが釘を誤飲して刺さった跡など、本人にも想像できないことを画像診断する想像力には感心しました。

最悪の“想定すること”は、可能な対策から逆に発生事象を挙げることです(タイプD)。時間と費用だけを決めて、後を対策実施者に丸投げするとこうなります。タイプBの対極で、対策できないことは発生しないことにする希望的観測になりがちです。

月並みなことですが、「結果論ではなくて、想定とその対策が妥当であったか。想定できなかったとすれば、どうすれば次は予言ではなくて想定ができるのか」の検証に尽きます。「全電源喪失」や「15mの津波」がどの想定外事項なのか、それによって今後の制度設計の教訓になるでしょう。

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