第307号コラム:辻井 重男 顧問(中央大学研究開発機構 教授)
題:「尸位素餐(しいそさん)とは?―ビッグデータ時代の日本語の論理性と国際性」
このところ、NHKから「第2次大戦と暗号」について取材を受けている。我々、暗号研究者は、1970年代以降の、情報社会の基盤としての暗号を現代暗号と呼び、20世紀前半までの軍事・外交用暗号を古典暗号と呼んで区別している。
2016年からマイ・ナンバーの使用も始まり、本人確認やデジタル署名の基盤性は増すばかりだから、公開鍵暗号を初めとする現代暗号についても、メディアの関心を期待したいのだが、そうはいかないのが悩ましいところだ。
それはさておき、改めて古典暗号関連の資料を読み直してみると、それはそれで、これからの日本再生に向けて考えさせられることも多い。
冒頭にあげた「尸位素餐」という言葉をご存知だろうか。私も最近、小松啓一郎著「暗号名はマジックー太平洋戦争が起こった本当の理由」で初めて知ったのだが、「尸位素餐」とは、「高い官位にありながら、満足に職責を果たさず、給料だけを貰っていること」だそうである。
昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃に始まる日米開戦を回避すべくアメリカとの折衝に当たっていた、野村吉三郎駐米大使は、遅々として進展しない外交交渉に失望し、「このまま、成果が挙がらないのに、給料を貰い続けるのは、心苦しいので、辞任したい」という気持ちを「尸位素餐」の四文字に託して、米国から日本に向けて暗号電文で送信したのである。この電文を傍受した、米国の暗号解読者は、日本人でも分からない漢語が分かる筈もなく、別の意味にすりかえて、米国政府に報告したのである。
これは一例であるが、暗号解読はできても、その翻訳ができず、好戦的に解釈された事例が多かったようである。こうした誤訳の積み重ねがなければ、日米開戦は避けられたかも知れないと、上記の著者は述べている。
古い話を持ち出したが、現在でも翻訳は難しい問題を孕んでいる。例えば、情報通信分野の国際標準を日本語に、ニュアンスが正確に伝わるように翻訳するのも難しい作業である。
最近の流行語とも言えるビッグデータの正確な定義はないようであるが、多様で膨大な非定型なデータをさすことが多い。従って、文学・小説などは別として、産業、科学技術、法令などの多岐に亘る分野で、日本語で書かれた多くの文書も広い意味ではビッグデータと見なければならない。この場合、日本語の論理性と国際性が問題となる。
日本語の論理性が低いかどうかは、形態素解析(単語レベル)、構文解析(文法レベル)、意味解析、文脈解析という言語解析の4段階のどのレベルで考えるかによる。機械翻訳の場合は、形態素解析、構文解析の論理性が高い方が処理し易い。人間は、意味解析のレベルで理解できることが多いが、構文解析レベルでの論理性を高めないと誤解を招く可能性も生じる。
「赤いお墓の彼岸花」と聞けば、赤いのは、「お墓」でなく「彼岸花」だと理解できるが、「眠れる森の美女」で、寝ているのは?と聞けば、「美女」と答える人が多い。だが、フランス語では、文法的に明確に「森」を指している。このような誤解を避ける上からも、形態素解析、構文解析レベルでの日本語の論理性を高める必要がありそうである。
イギリスでは、17世紀末、シェークスピアから100年近く経った頃、「我々は、このような情緒的で感覚的な言語を使っていて良いのか」と言う反省が起こり、言語の大改革を実行したそうである。
日本語の場合、平安時代は、和歌などが中心で、論理性よりも情緒性が重視されたが、鎌倉時代になると、事務処理も増え、論理性が高まったようである。近代に入り、明治の開国期、そして、第2次大戦後と言語の改革が進められたが、現在、改めて、言語について考える時期を迎えているように思われる。
尤も、これからは、ビジネス言語は英語で書かれるようになるだろうという意見も多いが、そういうケースが増えるにせよ、日本語について考える必要性が高まっていることは否定できない。
デジタル・フォレンジックについては、米国における訴訟で、日本語文書の翻訳文を証拠書類として提出する際の、労力、コスト、時間が大きな問題となっており、法令や社内規則などの機械翻訳も要請されよう。ここで、法令分野について考えてみよう。
憲法のように理念を掲げる場合は別として、一般の法律や条令などは、論理的に明解でなければならない。北陸先端科学技術大学院大学では、片山卓也前学長が研究リーダーとして推進した21世紀COE以降、法令工学プロジェクトを進めている。法令工学とは、法令を社会のソフトウェアーと考えて、法令間の矛盾、たとえば、法律と条例との矛盾の検証や、法令文自体の論理性のチェック等の情報処理を進める学問である。法令工学では、日本語の論理性を高める研究、及び、自然言語処理に適するように、直観主義論理や様相論理などを用いて、論理学を多様化・高度化する研究という両面からのアプローチによる考察を深めている。
私も、2年ほど前から、暗号文を論理式で表すと言う発想で、研究を開始した関係で、論理学を俄か勉強していることもあって、法令工学の動向を興味深く見守っている。
いずれにしても、ビッグデータ時代には、日本語の論理性と国際性を高める研究は不可欠であろう。
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