第384号コラム:辻井 重男 顧問(中央大学研究開発機構 機構教授)
題:「暗号学者の戦争体験と歴史観―情報の収集・分析・活用・開示の視点から―その1」
まえがき 最近驚いたこと
このところ歴史認識を廻る議論が続いてきたが、私が最も驚かされたのは、日本と、中国・韓国の歴史学者たちの間での日清戦争をめぐる認識の違いである。「重要性の高い近代戦争を10上げよ」というアンケートに対して、日本の歴史学者は、「日清戦争を10番目に入れるか入れないか」であるのに対して、中・韓の学者の多くは、日清戦争をトップに持ってきたそうである。私は、かねてから、日本人の国民性と国の組織・意思決定形態などを考えると、日清戦争から、更に遡れば明治維新から、太平洋戦争敗戦に至るまでの歴史には、半ば必然性を感じていたので、日本の歴史学者の認識に驚いた次第である。
日清戦争の下関講話条約から3国干渉、そして、臥薪嘗胆を経て日露戦争へと至る流れには暗号解読も関わっているが、この辺の話は、後程、述べるとして、もう一つ、最近、つくづく思うことがある。現在、20歳の若い人にとって、太平洋戦争は、生まれる半世紀前に起きた戦争である。1933年生まれの私にとって、生まれる50年前、つまり、1883年前後はどうだったか。1877年には西南戦争、1894年には日清戦争が起きている。それを考えると、太平洋戦争は、現在の若者にとって、まさに歴史であるのは止むを得ない、というより当然だと実感させられるわけである。
2015年8月15日は、戦後70年ということで、90歳前後の方々の貴重な戦争体験が多くメディアに流されたが、それらを見ながら、次は、我々、80歳前半の世代が、戦争体験を残しておく番ではないかと思い、小文を書き始めたという訳である。
我々は、兵隊にとられるのは数年の差で免れたが、小学校(正しくは国民学校)で、我々より年配の世代以上に極端な軍隊式教育を受けた世代である。そのあたりの体験談から始めよう。(デジタル・フォレンジックと何の関係があるか? それは、副題にあるとおり、情報の収集・分析・活用・開示と言う視点から、追々、書きますので、暫くご辛抱の程を。)
1.私の戦争体験
1941年12月、太平洋戦争が始まったとき、私が小学校3年生であった。ラジオのニュースを聞いて、大変なことが起きたのだと漠然と感じたのを覚えている。多くの文化人達は、「これで、もやもやが晴れた」と感じたそうである(ドナルドキーン著作集第5巻、日本人の戦争、など)。膠着状態だった中国との戦争(日支事変と呼ばれていた)から解き放たれたという訳である。当時の文化人たちの、日本の国力や技術力に対する認識と情報分析の低さには驚かされるが、それはさておき、戦争が始まると、日本軍は連戦連勝、香港、シンガポール陥落のニュースが相次いだ。連日報じられる、「敵戦艦、3隻撃沈、大破炎上せしめたり」という大本営発表を、まるで、巨人がタイガースに勝ったというのと同じような気分で喜んでいた。
戦争と言うのは、その悲惨さが身近に迫るまでは、観客席から眺めるように対象化されるのが恐ろしい。最近も、ある漫画家が、「戊辰戦争も、会津戦争がなかったら淋しいですよ」と言っていたが、東郷頼母の妻が、幼い子供達を道連れに自決する光景をどう見ているのだろうか。しかし、私も、そう思うようになったのは、後の話で、小学生の私は、世界地図を広げ、今に、アメリカの緑色が、赤く(日本地図と同じ色)に塗り替えられるのかとニコニコしていた。因みに、幕末、吉田松陰は「インドまで取れ」、橋本左内に至っては、「アメリカまで取れ」と言っていたそうである。
私の父は、普通のサラリーマンだったが、連戦連勝の頃から、「この戦争は負ける」と口癖のように言っていた。母は「こんなに勝っているのに、何故そんなことを言うのだ」と不思議がっていた。早くも、1942年(昭和17年)6月には、日本海軍は、ミッドウエイ海戦で、壊滅的打撃を受けるのだが、そのような情報は、勿論、秘密にされていた(付録参照)。
その後、ガダルカナル撤退(大本営発表では、転進)を経て、1943年(昭和18年)、アッツ島等玉砕と言う暗いニュースが、新聞のトップ記事となる。こうなると母も「やはり、日本は負けるのかねー」とつぶやいていた。その朝、学校へ行くと、先生が、伊藤君と言う生徒を指指して、「伊藤、玉と瓦とどちらが大事か」と問いかけた。伊藤君はニコニコして「瓦です」と応え「馬鹿者」と叱られていた風景が今でも目に浮かぶ。「刃も凍る北海の気温は零下40度・・・山崎大佐指揮を取る。」という歌が暫く流行した。
学校では、軍隊帰りの先生が、軍隊式教育を持ち込んだ。先生が「天皇陛下」と一言と言えば、さっと鉛筆を置いて、姿勢を正す。いたずらでもする生徒が一人いると、連帯責任ということで、「全員、股を開け、歯を食いしばれ」と怒鳴られ、往復ビンタで、頬が痺れた。
1944年(昭和19年)7月、サイパン島も玉砕、東京も、B29の攻撃にさらされると言うので、学童疎開が始まった。母達に見送られて、上野駅から福島県へ出発した。国民学校の5年生だった。あるおばさんが、我が子の名を呼びながら、走り去る列車を追いかけていたのが、目に焼きついている。疎開先では、ご飯は少なく風呂に入ると皆ガリガリに痩せ、あばら骨を出していた。
授業中、虱を取り合ったりしていた。山へ遠足に行くと、松根油をとるため、土を掘っている人達がいた。いくら新聞で、「日本は勝つ」と宣伝されても、これで飛行機を飛ばそうと言うのでは、勝てる筈はないな思いながら眺めていた。「本土決戦、我に必勝の算あり。」という見出しが躍る新聞を、寮母さんの肩越しに覗き込んで、「本土決戦必ず負ける」とふざけたら、彼女も、「うふうふ」と笑っていた。
1945年(昭和20年)4月13日、東京の椎名町にあった自宅が戦災で焼けた。前日、ルーズベルト大統領がなくなったので、その仕返しだろうなどと噂していた。親から「森にいる安せよ」という電報が届いた。「あの辺に森があったかなー」と不思議だったが、後で聞いたら森脇という目白の親戚だとのことだった。
学校では、「本土決戦になったら、君達も手榴弾を持って、敵陣に飛び込むのだ」と教えられた。「いずれ死ぬのだな」とは思ったが、それ程差し迫った感じはなく、覚悟したと言う程ではなかった。負けるとは予想したが、日本の辞書には降伏という文字はないから、本土決戦は必至だと漠然と考えていた。
その内、私の家族は、埼玉県飯能に疎開した。親が、東京を離れれば、子供も、親の元に戻ってよいというルールだったようで、終戦の1ヶ月前、父が、福島県土湯温泉の疎開先まで予告なしに、迎えに来てくれた。その姿を見たときの嬉しさは、忘れようもない。実は、親に、「帰りたい」という手紙を出して、検閲に合い、捕まった同級生が何人かいたので、私はそれまで「沢山食べているから安心して下さい」という殊勝な手紙を親に出していたのだが、
遂に我慢できなくなり、本音を書いた手紙をこっそり出したのだが、運よく検閲を免れ、親はびっくりして迎えに来てくれたと言う次第。
しかし、飯能でも、夜中、空襲警報が鳴ると、米櫃を抱えて、郊外へ避難した。ある晩、私と反対側の田舎道を歩いていた父が、警察官に「何だ、君は」と言って殴られていた。後で、聞くと「こんな戦争早く止めてしまえ」とつぶやいたからだという。
玉音放送の2、3日前、ポツダム宣言を受諾して、日本は降伏するそうだと父が聞いて来た。これで命は助かったかと嬉しかった。それからが大変だったことは「日本の一番長い日」に描かれているが、それは知る由もなく、とにかく玉音放送が始まり、ラジオのある隣の家に集まった。そのうちの親父さんは、裸で、胡坐をかいていた。ある軍人の奥さんは、「お座りなさい」と云われても、炎天下の庭で、直立不動で聞いていたが、放送が終わるや否や泣き崩れた姿が今も目に焼きついている。
それから暫くは、連日、新聞に、「○○方面の皇軍降伏」と記事が出るのを不思議な気持ちで眺めていた。皇軍に降伏ということがあるのか。「皇軍降伏」とは語義矛盾のように思えたのである。子供は洗脳され易い。いや、玉音放送の録音盤を奪って、本土決戦に持ち込もうとした陸軍将校達の洗脳のされ方はもっと恐ろしい。いずれにしても、情報が秘匿された状況下での洗脳であった。現在はどうか。情報は溢れているが、自分が気に入った情報だけを選びとり、情報閉鎖空間に自ら閉じこもっている傾向もあるようだ。
情報の扱い方は難しい。次回からは、情報の収集・分析・活用・開示という視点から日本の近代について考えて見たい。
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付録 ミッドウエイ海戦と暗号
ミッドウエイ海戦については、最近、テレビで半藤一利氏が「ミッドウエイで負けたのは、暗号解読の為と言われるが、そんなことじゃありませんよ。驕慢、驕慢ですよ」と声を大きくしておられた。ハワイ真珠湾攻撃の時と違い、呉の軍港を出るとき、「ミッドウエイに行ってくるよ」という感じだったとも伝わっているので、気が緩んでいたのは、確かだろうが、「米海軍が日本海軍の暗号解読に成功していなかったら、アメリカは完全に負けていた」とミニッツ提督が言っていたことも事実である。日本軍の暗号鍵交換が1ヶ月早ければ、米軍は、日本軍の暗号解読に成功しなかっただろう。ミッドウエイ海戦の敗北は、日本の敗戦を半年早めたと言われるがどうだろうか。いずれにしても、鍵の運用・管理の重要性は古典暗号でも現代暗号でも変わりないことを忘れてはならない。
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