第61号コラム:町村 泰貴 氏(北海道大学 大学院 法学研究科 教授)
題:「個人情報漏えいが殺人につながる可能性」

 

個人情報漏えいは、漏えい元となった企業・組織にとって甚大な被害をもたらす。経済的な損失という点でいえば、一人あたりの損害額が高くても15000円とか30000円とかのレベルであるので、訴訟を提起しやすい仕組みに欠けている日本の場合、あまり大したことはない。もちろん漏えい後の対策費や、任意で支払う見舞金や商品券などの支出はバカにならない額に上るだろうが、それよりも情報漏えいによる信用の失墜は、有形無形の損害を企業・組織にもたらし、その損失は計り知れない。

しかし、いずれにせよ、これらの被害・損失は経済的なものにとどまり、人の生命身体に危害が及ぶという性質のものではないのが普通である。ところが、漏えいにより人の命が脅かされる性質の情報もあり得る。その典型例は、ドメスティックバイオレンス(以下DVと略す)に関連する情報漏えいである。

DVは、かつては単なる夫婦げんかと片付けられていたが、次第に被害者の人権に関わる問題であることが認識され、世界的にも20世紀末から対策立法が導入されてきた。日本でも2001年にいわゆるDV防止法が制定され、裁判所の命令により加害者が被害者に接近を禁止する制度と、加害者が夫婦の住居を退去するように命ずる制度が設けられた。これらをDV保護命令というが、DV保護命令は地方裁判所が管轄する。

保護命令は被害者にとって法的な安全を確保するための手段であるが、実際には物理的に加害者の元から逃げ出さない限り、安全を確保することはできないし、被害者の居場所を加害者に知らせないようにしなければ、たとえ接近禁止命令が出ていたとしても、諦めきれない加害者に襲われるリスクがある。

実際DVに起因する暴行、傷害事案はもちろん、殺人事案も予想以上に多い。平成20年の統計によれば、警察に摘発された件数が傷害871件、暴行504件で、殺人も77件あったという(2009年3月12日付け産経新聞サイト)。単純に計算すると、日本でも4〜5日に1件の割合で、DV殺人が起こっているということになる。

この危険は、被害者が逃げ出しても、加害者が追いかけてきて現実化することがあり得る。記憶に残っているところでは、2004年に鹿児島県鹿児島市で離婚調停中の妻が夫に殺された事件、2006年に徳島県吉野川市でDV防止法の接近禁止命令を無視した夫が妻を殺害した事件、さらには今年6月に大阪府八尾市で元同居相手が父親の家に逃げていたところを追いかけて包丁で怪我をさせたという事件が起こっている。

こうした状況下では、DV被害者が逃げ出してシェルターやその他の支援施設等にいる場合に、その所在情報を加害者に伝えないことが極めて重要である。まさしく命の危険に直結する情報セキュリティである。

ところが、この場面でもなお情報漏えいは起こる。呆れたことにDV保護命令を発令した裁判所のお膝元でも、被害者の住所を含むデータを加害者に開示してしまうという不祥事が起こった。DV保護命令に対して抗告を申し立てるために加害者が記録を閲覧したところ、その中に被害者現住所が記載されていたというのである。

このほかにも、役所関係では大津市の職員が知り合いの男性に元妻の住所家族構成を漏らし、地方公務員法上の守秘義務違反に問われたり、所沢市が逃げ出した妻の住民票除票を夫に送付して損害賠償を請求されたりしている。

これらの情報漏えいが原因で殺人事件に至ったケースは、まだないと思われるが、DVに起因する殺人事件が4〜5日に1件も起こっている現状では、そのリスクは極めて高いといわざるを得ない。そのように考えると、情報セキュリティが果たすべき役割は、改めて重要だと感じるのである。

 

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