第170号コラム: 中安 一幸 幹事(厚生労働省 政策統括官付社会保障担当参事官室
室長補佐、東北大学大学院 医学系研究科 客員准教授、IDF「医療」分科会主査)
題:「処方せんの電子化に向けた考察」

平成23年度総務省健康情報活用基盤構築事業の一つとして、香川県において「処方せん情報の電子化」にかかる実証事業を行うこととなり、その実行委員長を拝命した。
これを引き受けたのは、2つのことを考えたからである。

まず1点目には、他国も構築を目指しているEHRというものに、いずれも政府ないしは国営の保険者等が主体的に関与をしていることに較べて、我が国ではいまだ、誰が何のためにそれを作り、どう維持していくのか、つまり医療・健康にまつわる制度や社会基盤としてどのように形作っていくのかということにあまり議論が及んでいないことが挙げられる。
我が国は、国民皆保険をはじめ国民の医療へのフリーアクセスを制度の基本として堅持してきたところであり、よい医療が安価に提供できている制度であると、この点に関しては国際的な評価も決して低くはない。
それでも我が国の医療制度は急激に進行する少子高齢化と相俟って、さまざまな解決すべき課題を抱える。

このような課題の解決方策に情報技術が役立てられないだろうかと考えるのは情報技術の著しい進展を踏まえた時代の流れからして当然としても、長きにわたり「よい医療」が提供できてきた制度に「IT」という手段を急速に導入することは、医療安全、患者安全の観点から大丈夫か、プライヴァシーの観点から心配はないのか、医療従事者の業務に過重な負荷をかけないのか、などの点につき、懸念を示す声があるのは止むを得まい。

本実証事業は、来るべき時代に、医療・健康情報を適切に活用することにより、医療・健康事業関係者や地域住民、保険者、行政等の、さまざまな関係者がどのような利益を見出すことが可能であるのか、それに見合う負担というのはどの程度のものか、そしてそれは誰の負担とすべきなのかなどの「我が国の医療・健康にまつわる法制」において、EHRというものを如何に考えるべきかという点につき考察するのに有用であるのではないか。

2点目は、諸外国において、電子化された医療情報を用いた医療機関間の連携(EHRの原始的な姿であるものも含めて)に「処方せん」が多く用いられているようである一方で、「処方せんの電子化」について我が国の法制においてはどうかといえば、制度運用上の課題等を克服する必要から、現時点においては、処方せん
自体を電子的に作成して制度運用することはできないこととなっているという点である。そもそも処方せんというものが果たす役割・位置づけについて、各国それぞれの法制の支配を受けるため一概には言えないながら、1点目に述べたような医療・健康情報を用いた社会システムをどう構想するかの議論において、我が国においてのみ処方せんを将来にわたって電子化することを(その是非を含めて)検討すらしてはならないということでもあるまい、ということである。

これら2点に鑑みれば、「処方せん」という国民が診療にかかった際に、もっとも身近に目にすることのできる情報であり、医療関係者が見ればその患者の状態の把握に極めて有用でもある情報の電子化を試みんとする実証は、我が国におけるEHRに関する考察において、極めて重要なものと位置づけられるべきものと考える。

本実証においては、
1)処方をする医療機関
2)処方を受け(処方監査をし、)調剤する保険調剤薬局
3)処方せんの交付を受け保険調剤薬局に赴き、薬の交付を受ける患者

の三者を実証に参加する関係者とし、情報システムを用いて、これら関係者間をネットワークで結んだ上で実施するものであるが、それぞれの関係性、連携の具体的方法と実際の業務の流れを踏まえた上で、セキュリティの確保、利用者の認証等にまつわるポリシー等を定めなければならず、かつ情報化のメリットを最大限に引き出し、将来のEHR基盤に有用なアプリケーションとしての展開可能性を検討する上では標準化にも適切に対応しておく必要がある。

また如何に将来の制度設計に向けた検討に資する実地検証であったとしても、法(や令、則などの規範)の定めを、いともたやすく冒してよいというわけではないこと、その上、検証しようとする場は実際の医療現場であるため、(実証のための若干の負担はお願いせねばならないとしても、)本来の医療業務の妨げとなるべきでないことは当然である。
そのような観点から本実証は、以下のことを念頭に置き実施に向けた設計を進めている。

1 「処方せんの電子化実証」というものの、実証に当たっては紙の処方せんを併用する運用とすることとした。
我が国では院外処方せんを電子化することを認めているわけでないと述べた。
一方で、一見これは保存に関して課せられた義務にかかる規制であるため、電子化された処方情報が関係者間で送受信され、それにより調剤等の業務がなされることを明に禁じているものではないようにも解せそうである。
しかし逆に、電子化した情報を伝送することをもって「処方せんの交付」と解せるかと言えば、実際の医療現場で実施する上では、必ずしも何らの疑義がないとは言えない。
したがって通常の処方せんを交付しながらも、極力それに依存しない業務運用をしてみて検証することとした。

2 法制等の遵守を念頭に置きつつ電子化できる(電子化する意味のある)ことは、積極的に電子化を試みるとして、現下の処方せんに要求されている情報伝達が、果たして電子化しても可能かどうかを検証する必要がある。
処方せんの記載事項に関しては定めがあるためこれにしたがうこととなるが、ただ単に処方せんの書面を伝送することに大きな意味はない(それならばファクシミリで十分である)。
処方情報として医療機関から出力された情報が、薬局において調剤録(への入力情報)や分包機(への指示情報)、薬袋(への印字情報)などに再利用できることにこそ、電子化のもたらす効率化のメリットがある。
また調剤変更を伴う場合にあっては、医療機関にその情報が返されていないと、当該患者の再度の来院時には、またしても調剤変更を必要とする処方がなされることとなり、誰の業務軽減にも資するものとならない。
この際にも、医師が調剤変更情報を医療情報システムから適切に参照できなければ、入力や参照の業務が増えるばかりである。本実証の成果として「将来、処方せんを電子化するにあたって参照されるべきモデル」を目指すべきである観点からは、国際的な標準規格に準拠した形式のメッセージや標準とされるコード等を用いて設計されなければならない。

3 処方せんというものは、診療にかかった際には手渡されることが多く、患者から見れば身近に感じられる「医療情報」である。
一方でそこに記載されている内容は、医療知識を有するものが見れば、その患者の健康状況に関する情報を、かなり的確に把握でき得るものである。
したがってEHRを構想する上では非常に有用なコンテンツとなり得るものであるが、その反面、取扱を誤れば重大なプライヴァシー侵害を起こしかねないセンシティヴ情報である。
紙であれば「処方せん」という物体を適切に管理すれば、それは概ね適切な情報管理に繋がっていることが多いが、電子情報として扱う本実証では、その特性を踏まえた十分な情報管理に関する配慮がなされる必要がある。

情報通信技術の進展は、大抵の伝票類を電子データ化して運用可能にしたように思える。
そのような技術をもたらした産業の育成・さらなる発展を目指す上では、旧来の規制が妨げになっているように感じられる場合もないわけでない。
しかしいたずらに規制を緩和する等すればよいかといえばそういうものでなく、その規制が保護していたものを電子化したとしても危険に晒さないとか規制により維持されてきた秩序を乱さないとかの配慮もまた、同時になされなければならないことは論を俟たない。

【著作権は中安氏に属します】