第239号コラム:林 紘一郎 理事(情報セキュリティ大学院大学 教授)
題:「チェックアウト・プリーズASAP その2:相続手続きにみるコンプライアンス偏重」

前回(コラム第215号)に引き続き、3月に母を失くして以来の顛末記のうち、相続手続きに関する報告である。前提として、90歳を過ぎた高齢者は、いくら自己管理の努力をしても、資産を全て自分で把握することは不可能であること、それどころか身近な通帳と印鑑でさえ(両者の対応関係を含めて)管理できていないものと、想定していただきたい。

相続人になったとき、誰しも最初に考えるのが、「税金を払わねばならないほどの遺産があるのか?」ということだろう。私の場合、父は他界して既に20年で、相続人は私と弟だけなので、非課税限度は基本の5千万円に、相続人1人当たり1千万円×2人で、合計7千万円であった。
数年前に、60年近く住んでいた各務ケ原(岐阜市郊外)から横浜に転居してもらったとき、旧宅(母の名義)を4千万円ほどで売ったので、それに近い金額は残っていると思われた。しかし、それ以外は年金生活なので、非課税限度に届くはずはない。
税金が関係しないなら、「物はためし」で相続の手続きを、全部一人でやってみることにした。弟に頼もうにも、青息吐息のベンチャーの社長に、そんな時間的余裕が無いことも、はっきりしていた。しかし、どれだけ時間と手間がかかるかもしれない。
そこで、偶然初期にコンタクトしたM銀行から、「弊社関連の信託会社で、相続手続きの代行もやっています」と誘われてもらったパンフレットに、「基本料金100万円+作業量比例」と書いてあるのを根拠に、「プロに頼んだら最低でも100万円はかかるのだから、私がその半額でやる」と宣告(?)して了承を得ておいた。

相続人がまずしなければならないのは、「自分(および弟。以下『私たち』)が正当な相続人である」ことを証明することである。それには母の戸籍を辿れるだけ辿り、「私たちが母の子であること。また私たち以外に、相続資格のある者はいないこと」を証明すれば良い。
しかし私たち兄弟は台湾・台北市の生まれなので、父母はどこかの時点で台湾に渡ったことは間違いない。当時の台湾は日本の領土だったので、戸籍も間違いなく引き継がれていると思うが、一抹の不安が頭をよぎる。
私たちの本籍は、新宿区西新宿にある。現に祖父が住んでいた伝統の場所を、父も母も私たちも本籍として継承しているので、調査の基点は明確である。そこで新宿区役所に行き、母の除籍謄本の写しをもらったところ、父と結婚する前は渋谷区に住んでいたことが分かった。そこで、渋谷区役所に行き必要書類をもらうとともに、名古屋から転入してきたことを知って、名古屋東区役所に「戸籍謄本・抄本等請求書」を送った。その結果、意外にも「除籍謄本の申請がありましたが、保存期間を経過し廃棄したので、交付できない」旨の告知書を受領することになった。
この間の経緯を追ってみると、以下のようになる。
・4月11日 新宿区役所にて、母の除籍謄本と私たちの戸籍謄本の写を入手
・4月13日 渋谷区役所にて、母の原戸籍謄本の写を入手
・4月17日 名古屋市東区役所に書類を送り、告知書を受領
手続きが意外にスムーズだった理由が3点ある。前2者の戸籍が都内の便利な場所にあり、アクセスが容易だったこと。これは例外に近いようで、私の周りでは数ヶ月もかかったという人が少なくない。特に戸籍が遠方にあって、またその先も遠方にある、あるいは市町村が合併して窓口が変わっているといった場合には、電話や郵便でしかやり取りできないので、時間がかかることは容易に想定できる。
私のケースがスムーズにいった理由の第2点として、「台湾に移住したことが一切記載されていない」ことも関係がありそうだ。当時の台湾は、戸籍のような事務は行なっていなかったのだろうか。それとも両親がいずれ本土に帰ってくることを念頭に、戸籍を移さなかったのだろうか。叔父や叔母に聞いてみることにしたい。いずれにせよ、この「中間省略登記(?)」のおかげもあって、事務処理が円滑に進んだ。
しかし、もっと効果があったのは第3点で、戸籍は永久保存かと思っていたところ、保存期間が有限であったこと。告知書が根拠とする戸籍法施行規則5条4項には、「除籍簿の保存期間は、当該年度の翌年から80年とする」と規定されている。日本には「永久保存」という考え方があり、大切な戸籍などはその部類かと思っていたが、公的な証明はここまでということのようだ(あとは、お寺などの「過去帳」に頼るしかない)。
私の場合はこれで十分だし、なまじ永久保存でもされようものなら、手間暇がかかってしようがない。しかし、平均寿命が延びていることもあって、この80年という期間では証明できない事柄もあるので、「100年程度に延ばして欲しい」というブログの記事もあった。親族関係が入り組んでいる場合には、そのような必要があるのかもしれない。
※ http://nihonkai.sblo.jp/article/9531837.html リンク切れ※

さて、私たちの資格証明書が揃ったので、金融機関へのアクセスを開始した。ここで一番の大きな問題は、通帳も印鑑も残っているものもあるが、母が使っていた多くの口座の存在すら分からないことである。時々届いた「残高証明書」や「(株式の)売買通知書」などの書類が残っていたので、これらを手がかりにするしかない。
そこで先の戸籍調べと並行して、貸金庫を借りていたY銀行に出かけて、金庫の中身を取り出そうとした。うまくすれば、そこに通帳や印鑑が入っているかもしれない。(入室用)カードと(開錠用の)鍵は残っていたので、銀行の行員が付き添ってくれて開錠できるかどうかテストしたが、暗証番号を3回間違えたところで「退場」を宣告された。
仕方がないので、取り揃えた戸籍謄本の写などが揃うのを待ち、step by step で手続きを行なうことにした。なお手続き完了後、行員さんがこっそり教えてくれたところによれば、賢いやり方は存命中に本人の保険証などを持参して、「脳梗塞で入院中で本人とは会話ができない」などの事情を話し、貸金庫の中身を予め取り出しておくことだそうだ。
しかし、その後の手続きはスムーズに進んだ。最初のコンタクトは4月23日。私が想定していた以外にも取引があり、5月8日の終了時点で判明したのは、普通預金・定期預金・公社債であった。この過程での「名寄せ」は完璧で、私が通帳を持っていない口座もすぐに明らかになった。行員さんも、一生懸命探してくれた。
このメインバンク(?)と並行して、まずは銀行の全てを当たることにした。晩年は歩行が困難だった母のことだから、歩いていける範囲の金融機関だけが対象だと思われた。そこで、メインバンクとは逆に、新規開店したばかりで少額の預金しかないM銀行に出かけてみたら、メガバンクの一角を占めるだけあって、手続きはスムーズだった。しかも「300万円未満なら簡易手続きで済みます」ということで、あっさりと終わった。
次は、Y信用金庫。私が手続きに慣れてきたこともあって、こちらも戸籍関係の証拠の提出で1回、私の口座を新設して母の分を移すことで1回、合計2回出かけるだけで終了した。MS信託銀行の場合も手続きはスムーズだったが、「諸届けセンター」という集中処理センターに直接連絡して、一度もフェイス・ツー・フェイスのやり取りをする間もなく終了した。後述の証券関係も含めて、集中処理はコスト削減のメリットがあるのだろうが、顧客の繋ぎ留めの意味ではマイナスかとも思われた(こちらは「繋ぎ留めたくない」客かもしれないが)。
私の業務繁忙もあり、いささか難渋したのは、ゆうちょ銀行だった。4月中に戸籍関係の必要書類を郵送したところ、連休明けの5月7日に通常貯金・定額貯金・定期貯金のそれぞれの残高が判明。窓口で請求手続きしたところ、貯金払い戻し調書が送られてきて、それを窓口に持参して私の口座に入金したのが7月4日だった。
銀行が一段落しそうになったので、並行して証券関係の手続きを始めた。5月28日にMJM証券に「相続届け」を送付し、7月4日に完了。しかし、5月22日に「特定口座開設者死亡届」を出したMI証券の場合は、相続手続き完了の知らせをもらったのが、9月28日だった。前者は1ヶ月強だが、後者は3ヶ月を超えている。
こうしてみると、随分資産があり、非課税限度を超えたのではないか、と思われるかもしれない。それは私たちの「想定外」であり、正直なところ一度は限度越えを心配したが、最終的にはギリギリだった。相続を開始する前に、20年前に父が死んだとき私も弟も相続を放棄して、すべてを母に引き継いでいたことを思い出すべきだったが、やれ通夜だ葬儀だといって取り込んでいる中で、思い出す余裕がなかった。
若干の入金処理などが残っていたが、ともかく帳簿上の遺産の整理は終わったので、「遺産相続協議書」を作成し、弟と署名捺印した。7月13日のことで、母の死からは3ヵ月半、戸籍を調べ始めてからは、ほぼ3ヶ月のことだった。

ところで証券の場合、どうしてこれほどの時間がかかるのだろうか? 私の見方では主たる原因は3つある。第1は、金融庁の厳しい行政指導ではないかと思われる。株式の相続もマネーロンダリングの一環と見ているのか、両社とも「相続事務センター」というところが対応し、営業店とは全く隔離されていた。しかも、このセンターは電話受付が専門で、フェイス・ツー・フェイスの対応はしてくれないのである。立派なファイヤ・ウォールである。
またセンターは、相続等の権利関係を処理するだけで、取引の件数は分かるが、それがいくらの価値を持つのかについては、一切口をつぐんでいる。ところが、相続は件数で分けるものではなく、金額で分けるものである。仕方がないから、オフィス近くの営業店に出かけて、それぞれの株式や投資信託毎に時価を評価してもらったが、それは時間の推移とともに変化する(しかも時には大幅に)もので、目安でしかない。

第2の理由と推測されるのは、同じく金融庁の行政指導があるものと思われるが、事前の情報開示義務である。上記のプロセスの途中で、両社とも分厚い「契約締結前交付書面」「約款・規程集」などを送ってきて、その一部については「読みました」という確認を電話で取っていた。電話された時に私の不在が重なって、この確認だけで10日ほどを空費したこともあった(夏休みにかかった事情もある)。3ヶ月もかかったのは、一部はこのせいである。
相続とは別件であるが、あるとき某銀行に私の預金が長期に滞留していたところ、「当面使い道が無ければ保険にされませんか」という勧誘を受けた。新し物好きの好奇心が働いて、誘いに乗ってみることにしたら、保険内容の説明だけで2時間以上もかかって驚いたことがある。情報開示は必要だが、これなら約款の自由化などせず、従来のような認可制度の方が「社会全体のコスト」は低く抑えられるのではないか、と疑ってもいる。

第3の、しかしより根源的な理由は、当の会社がこのような手間暇を「当然のコスト」と考えていることではないかと思われる。あるいは、もっと辛辣に言えば、営業職に向かない人の仕事を確保している、と言ったら良いかもしれない。電話応対に出てくださった方々は、いずれも丁重で親切に対応してくれた。しかし社長経験もある私からすれば、「この対応をセールスにつなげる」という匂いが、全くしないことが気になった。
もちろん「セールスに繋げない」ことの方が、コンプライアンスの趣旨に合致することは承知している。しかし、何事につけても「キチンと」しなければ気がすまない日本人にとっては(因みに、「キチンと」を英語にするのは至難の業)、コンプライアンスが業務の大宗を占めてしまうのではないか、と気にかかる。「コンプライアンス栄えて企業滅ぶ」というパラドクスが、(郷原信郎氏が恐れるように)妄想ではないのである。
以上3点を通底するのは、「コンプライアンスは何者にも優先する」という信念(私からすれば「思い込み」)ではなかろうか? その結果生ずるコストは、必要経費となり最終的には利用者に転嫁される。最後に出てきたMI証券の場合、私が受け取った資料は10センチほどの厚さになった。
それどころか、この間のやりとりに掛かる費用の大半は、利用者の「時間」というコストである。そこで試しに、相続開始以降の私のコストを試算してみよう。合計の時間数は、戸籍関係(8時間)+銀行・ゆうちょ関係(20時間)+証券関係(20時間)= 合計48時間 であった。
先に弟から了解を得ておいた額は50万円だから、1時間1万円とすれば、おおよそバランスが取れていることになる。しかし私は外部からの講演依頼の場合、1時間で10万円いただくことにしている(そう言って、やりたくない講演を断っている)から、そのベースでは100万円単位の持ち出しである。

以上の経験から学べることを、できるだけフォレンジックに引き寄せてまとめてみよう。
①日本はハンコ社会だと思ってきたが、死んだらハンコに何の意味もないことが判明した。上記のプロセスで、私の実印を求められたことは何度もあったが、母の印鑑を求められたことは一度もなかった。行為者は母ではなく私なので、これは当然のことかもしれないが、「通帳と印鑑」というインプットが強い私には、意外な感じがした。
②コンプライアンスが厳しすぎると、必ず「抜け道」を求めることになる。先に貸金庫の抜け道を紹介したが、同じことは預金にも適用されているようである。つまり、母の生前でも、私が母の保険証などを持って行って、母の口座から引き出すことはできるらしい。キャッシュカードでやれば、もっと簡単で、「死者の口座を閉める前に、なるべく早く全額を引き出す」ことが、相続担当者の極意だと後刻聞かされた。
③手続きやシステムの間に不均衡があるのはやむを得ないが、一方でコンプライアンスが徹底しているかと思えば、他方では尻抜けという事態も観察された。例えば、母の死後半年も経ってから、Sカードが郵送されてきた。支払銀行は上述のY銀行で、口座はとうの昔に閉鎖されている。電話して契約を解除してもらったが、Y銀行の口座閉鎖とは連動していないようである。セキュリティはどこから破られるかもしれないので、「頭隠して尻隠さず」では不十分である。
④先に、私流の「費用・便益分析」を紹介したが、法学部卒あるいは法務部の担当者に、こうした発想が欠けているのが気になった。例えば、私は現在6社から50万円ずついただいて、マルチクライアントの共同研究をしている。その契約書を作る際、まさか各社が法務担当に照会するとは思わなかったので、この線なら大所で合意可能という契約書を準備した。ところが、各社とも法務に紹介した結果、そのうち数社の法務が契約書の修正を求めるなど、「引くに引けなくなった」ところが出てきて収集に苦労した。1回相談しただけで5万円程度の費用は発生するだろうから、どんどん研究直接費が少なくなってしまう。
⑤その行き着く先は、ガバナンス・コンプライアンス・○○マネジメント、といった横文字による管理費の増大である。それぞれに良いところがあるのは否定できないが、要はトップが「総量規制」をしなければ、これらの費用は増大を続ける。そして、肝心の直接費を奪ってしまう。証券会社の現在の対応は、「株を持つのは相続のときに大変だから、やめたほうが良い」というメッセージとしか思えない。日本全体からすれば、高齢者のタンス預金を流動化してもらうのが急務であるところ、全く逆の指導が徹底している。本末転倒の管理手法は、止めなければならない。

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