第262号コラム:辻井 重男 顧問(中央大学研究開発機構 教授)
題:「デジタル・フォレンジックと日本の将来―言語と論理の視点から―その1」

1.この題名は、言語解析的に見て如何?

この題名では、(デジタル・フォレンジック)と(日本の将来)の関係について考察すると言う意味に受け取られるかも知れませんが、私の意図は、「デジタル・フォレンジックの将来」についても「日本の将来」についても、言語と論理の視点から考えてみたいという点にあります。つまり、「(デジタル・フォレンジックと日本)の将来」です。

同じ構文でも、「晶子と鉄幹の将来」という題名なら、「(晶子と鉄幹)の将来」という意味に受け取る人が、「晶子と(鉄幹の将来)」より多いかもしれません。日本語の構文解析は、意味解析レベルまで上げないと難しいということの一例でしょう。「日本語の」と断りましたが、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語など欧州語同士の翻訳には、通常、翻訳者のオリジナリティは認められないようです。単語レベルの形態素解析と文法レベルの構文解析で、機械的にやれるということでしょう。

このコラムでは、デジタル・フォレンジックにおける言語解析と論理学の導入、及び、日本文化における論理性について、2回に分けて考えてみたいと思います。

2.総会後の講演(2013年5月21日)用スライドと合わせてお読み下さい。
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本コラムは、第10期の総会終了後に私が行った講演「真を保証し、偽を防ぐデジタル・フォレンジックの未来像」と重なるところが少なくありません。この講演の内容は、下記の通りでした。

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1)プラトンの2世界モデルとサイバー空間の出現
2)情報社会のDADAism
3)三止揚・MELT upの概念
4)MELT upとデジタル・フォレンジック
5)デジタル・フォレンジックと人材育成
6)自然言語と現代論理学
7)暗号の社会的利用推進フォーラム
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講演のスライドは、IDFのホームページに載っております。このコラムは必ずしも、上記の講演の目次に沿ってはおりませんが、ご参考のため合わせて見ていただければ幸いです。また、253号のコラム「論理学暗号の提唱―「デジタル・フォレンジック論理学」を始めてみませんか」(辻井重男)とも一部重複するところもあることをお断りしておきます。

3.太平洋戦争の戦犯は、石原莞爾かプラトンか

突然、可笑しなことを言い出すかと思われるでしょうが、真面目な話です。このところ、また歴史認識が話題となっていますが、どこまで、遡って歴史を考えるかによっても、認識は変わってくるでしょう。太平洋戦争への突入には、経済的行き詰まりや国民・ジャーナリズムのムードも後押ししていましたから、誰か1人を戦犯にするというわけにもいきませんが、強いて言えば、やはり、満州事変を起こした石原莞爾でしょう。その石原莞爾は、幕末、黒船艦隊を率いて浦賀沖に現れたペリー提督が戦犯だと言っていました。更に、世界史を遡れば、プラトンに行き着くと私は考えています。だからといって、日本の責任が回避されるものではありませんが、それはさておき、プラトンの2世界モデルについて考えてみましょう。(プラトンが戦犯だと言うのは、勿論、比喩的に表現したまでで、真ともに受け取ってもらっても困りますが、中国を初めとする他の文明圏では、経験的技術は発展しても、近代科学が生まれなかった歴史的事実を踏まえての話です)。

イデアの世界を上に、自然を下に見る2世界モデルに代表される古代ギリシャの思想は、自然は無矛盾に美しく創造されている筈だと言うユダヤ・キリスト教的世界観と相俟って、西洋世界に自然科学を生み、それを基盤に科学技術が発展し、産業革命が起こりました。そして、西洋列強は、東アジアを侵略し、植民地を拓きました。日本も植民地にされてはならないという憂国の情が過剰反応となり、太平洋戦争に繋がったという流れです。尤も、歴史は、常に、必然と偶然が織り成して形成されますから、太平洋戦争が必然だったとは言えません。その話は、幾らでもしたいところですが、そろそろ本論に入りましょう。

私が、このコラムで言いたいことは、デジタル・フォレンジックとしても、より広く日本としても、プラトンやアリストテレスに代表される古代ギリシャ人の論理的思考に馴染む必要があるのではないかということです。

4.古代ギリシャの論理的思考

サイバー世界における認証・署名の基盤になっているRSA暗号の基本公式は、1761年、18世紀最大の数学者と言われる、オイラーによって考え出されたので、「オイラー関数」と呼ばれています。しかし、江戸時代の和算家、久留島義太(?~1757)は、それより早く、オイラー関数を導いています。私は、ナショナリストでもありませんが、暗号学者としては世界で唯一人「久留島義太・オイラー関数」と呼んでいます。先日、BBCが製作したテレビで、微積分を発明したのは、ニュートンか、ライプニッツかという番組を放映していました。「一寸待ってよ、関 孝和も入れてよ」と言いたいところでした。それほどの水準にあった和算ですが、八代将軍吉宗の頃、ユーグリッド幾何学が伝えられた際、和算家達は、何故、「点とは何か、線とは何か」と言う、当たり前のような公理系の設定などをするのか、理解に苦しんだと伝えられています。

エジプトでは、それより早く、ピラミッドを築いていますから、幾何学的知識も蓄積されてはいたのでしょうし、ユーグリッドもピラミッドを見ていたようですが、公理、定義、定理と言うような理論体系の構築は、やはりギリシャに特有な思考から生まれたものでしょう。アリストテレスに始まる三段論法などの論理学も、何故、このような面倒な理屈を並べるのか、このような議論をして、何か創造できるのかという疑問も生じますが、論理を徹底的に追求するところに古代ギリシャの特徴があると思われます。

プラトンやユーグリッドより古く、タレスは、幅のない縄、即ち、縄のイデアを唱えていたそうです。哲学者 西田幾多郎は、名著「善の研究」の中で「物理学者の言うごとき幅のない線、厚さのない面などというものは実在するものではない。この点では、芸術家の方が余程、実在の真相に達しているのである。」と書いています。「善の研究」が出版されたのは、明治44年ですから、数学と物理学の区別も明確ではなかった頃なので、無理もありませんが、正しくは、「物理学者の言うごとき」ではなく、「数学者の言うごとき」と記すべきでしょう(幅のない線が物理的に存在する筈はありませんから)。それはさておき、果たして、西田先生のいう通りでしょうか(本コラム末の註参照)。
私は、10年ほど前、中央大学の卒業研究で、学生と一緒に計算機実験して、幅のない線が、数学的に、そして社会的に実在することを確認しました。どういうことか説明しましょう。

現在、最も広く利用されている公開鍵暗号は、RSA暗号であり、次いで、楕円暗号です。RSA暗号では1024ビットの鍵長を必要とする安全性を、楕円暗号なら150ビット位の鍵長で達成できます。要するに、安全性の点では、楕円暗号の方がRSA暗号より断然優れているのです。それなら、「楕円暗号が広く使われてもよいのでは」ということになりますが、RSA暗号の発明が、楕円暗号の発明より10年程度早かったために、市場占有率はRSA暗号の方が大きいというわけです。

さて、RSA暗号には円が対応し、楕円暗号には楕円が対応します。楕円もいろいろです。例えば、長径が短径の何倍もあるような、誰が見ても楕円と分かるような楕円(楕円Aと呼ぶことにします)もあれば、短径が地球の直径くらいで、長径は素粒子一個分だけ短径より長い楕円、つまり、神の目で見なければ、円にしか見えない楕円(楕円Bと呼ぶことにします)もあります。
ここで問題です。楕円Bに対応する楕円暗号の安全性は、楕円Aに対応する楕円暗号と同じ安全性を確保できるでしょうか?それともRSA並みの安全性しか得られないでしょうか。正解は、楕円Bでも楕円Aと同じ安全性が得られるということです。言い換えれば、幅のない線で描かれた楕円は数学的には実在するということです。それが皆さんのICカードに入り、社会的実在となっていると言うことになります。

プラトンは、「本当の円などこの世にないのに、何故、人間は近似的な円を円と認識できるのか、と言えば、以前、人間はイデアの世界に住んでいて、本当の円を知っていたから、この世に降りてきても、円と認識できるのだ」と言っているそうですが、数学は正にイデアの世界ですね。
なぜ、古代ギリシャには、論理的な、悪く言えば理屈っぽい議論や思考法が生まれたのか。民主主義の誕生により、議論の場が宮廷内から広場(アゴラ)に移ったこと、貨幣経済の発展の影響などが考えられますが、これを引き継いで、19世紀後半から現代論理学を発展させた西洋人のDNAも大いに関係していると思われます。なお、カントは、「論理学はアリストテレス以来、2300年間、退歩も進歩もしなかった」と純粋理性批判に書いていますが、最近の研究では、この間もかなりの成果が出ていたことが知られてきたと哲学者の加藤尚武先生から伺いました。
いずれにしても、フレーゲ(1848~1925)あたりから、論理学は本質的展開を見せるわけですが、その展開には、集合論などの数学の発展とデカルト以来の意識の哲学から客観性の強い言語哲学への志向の高まりとの連動があったように思われます。

「現在のフランス国王は禿げている」という命題は、哲学者・論理学者ラッセル(1872~1970)が、これを関数概念に基づく複合命題として捉えた例としてよく知られていますが、こうした問題を哲学的課題として深く考えるということは、日本人には馴染みが薄いように感じられます。日本人の感覚や文化は、叙情性・情緒性に優れている反面、論理性が弱いのではないかと思います。
本コラムでは、日本人と文化の論理性の問題を
1)デジタル・フォレンジックなどにおける自然言語と論理
2)プライバシー保護の議論や行動などに現れる日本人の国民性や文化の課題
に分けて考えてみたいと思います。以下、1)について述べることとします。2)については、次回、考察することとします。

5.自然言語と論理学の溝埋め

自然言語と論理式の間には溝があり、両者の相性は良いとは言えませんが、今後の情報・文書の大爆発に備えて、両側から、溝を深めていくことは大きな課題だと思います。
先ず、自然言語の側からの溝埋めについて考察しましょう。日本語に限らず、自然言語には、様々な非論理性があります。例えば、
「与謝野晶子は与謝野鉄幹を愛している」なら「与謝野鉄幹は与謝野晶子に愛されている」は正しい。
しかし、「皆は誰かを愛している」としても「誰かは皆に愛されている」は正しいとは限りません。
このように、自然言語は、論理的には矛盾を含んでいます。このような矛盾を意識し、なるべく矛盾を含まない文章を書くことが求められます。
特に日本語は、ヨーロッパ語に比べて非論理性が目立ちます。先日、下記のような記事が新聞に出ていました。
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日本語、途方もなく自由だった

・・・日本語が持つ「途方もない融通無碍な自由さ」だ。「非論理的なもの
も『てにをは』がつなげてしまうなど意味を超えて感情を喚起する、
ある種の分泌性がある」。そして日本語を操る我々にも「つじつまが合
わないものを受け入れ、そこに美や叙情を感じる性質がある」というのだ。
・・・(赤田 泰和、朝日新聞 2013年4月30日 夕刊。)
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日本語が美しいのは大変結構ですが、自然言語処理や機械翻訳を行う場合、いささか困ることになります。自然言語処理は、形態素解析、構文解析、意味解析、談話解析の4層から成ります。

先ず、形態素解析とは単語レベルの解析ですが、日本語は、分かち書きをしないため、単語の抽出に迷いが出ます。次に、冒頭にも述べたように、文法レベルの構文解析も、意味を考えないと出来ない場合が少なくありません。
日本語の美しさや叙情性を損なわずに、形態素解析、構文解析のレベルで、論理性を高めることは出来ないでしょうか。最近は、殆どの文書はワープロになりました。その際、単語間を半角空けるというのはどうでしょうか。全角なら違和感がありますが、半角なら目立たないでしょう。

構文レベルでも、例えば、「鶴瓶の家族に乾杯」では、「(鶴瓶の家族)に乾杯」、なのか、「鶴瓶の(家族に乾杯)」なのか、テレビを見なくても分かるように、(鶴瓶の)と(家族)の間に空白を半角入れて「鶴瓶の 家族に乾杯」としてはどうでしょうか。
これは些細な提案ですが、特に法制度やビジネス、あるいは科学技術の文書などでは、こうした工夫をして、機械翻訳やe-Discoveryを少しでも容易にすることが、ビッグ・データ時代には必要でしょう。

要するに、形態素解析・構文解析のレベルで、意味の混乱が起きないような文章を書くよう努めるべきでしょう。そうしたからと言って、美しいと感じる文章や、人の心に響く文章が書けなくなると言うことにはならないでしょう。
昔、三島由紀夫が、大蔵省(当時)に入省して間もない頃、上司から「君、人の心に響くような文章を書いてはいけないよ」と注意されたそうですが、お役所も、形態素解析・構文解析のレベルでは明快な、そして、意味解析・談話解析のレベルでは人の心に響くような霞ヶ関文学で情報公開を進めてもよいのはないかと思いますが、如何でしょうか。
デジタル・フォレンジックでは、対米訴訟に備えて、機械翻訳と合わせて、証拠の論理性検証なども重視されるようになるかと予想されます。

北陸先端科学技術大学院大学では、片山卓也学長のリーダーシップの下に、法令工学の研究が進められています。同大学は、全国の大学が、名誉を掛けて争った21世紀COE(Center Of Excellence,文部科学省の競争的資金)を獲得し、富山県条例などを題材に、法制度間の矛盾を論理学的に検証すると言う成果を挙げています。
次に、論理学の側から自然言語処理の間の溝を埋める点についてはどうなっているでしょうか。253号のコラム「論理学暗号の提唱」でも触れましたし、多くの論理学書でも解説されているように、直観主義論理(2重否定=肯定 ではない論理)や、信念、知識などを扱う様相論理、あるいは、多値論理、ファジー論理など多くの論理が展開されており、その一部は上記の法令工学でも活用されています。
繰り返すようですが、今後、デジタル・フォレンジックでも、自然言語の構造化と合わせて論理学の導入を追及してみては如何でしょうか。

註 「善の研究」が出版されて、約20年後、西田は「今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。然(しか)非難されても致し方はない」と述べています。楕円曲線の例について、西田先生の教えを仰ぎたいものです。

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