第401号コラム:辻井 重男 顧問(中央大学研究開発機構 機構教授)
題:「暗号学者の戦争体験と歴史観―情報の収集・分析・活用・開示の視点から
―その2  太平洋戦争を起こしたのは誰か」

前回(その1)で、日清戦争に対する、日本と中韓の歴史学者の評価の相違について触れたが、この話をある元中国大使に話したところ、「だから、日中韓の歴史学者は、アヘン戦争に遡って議論し始めた」とのことであった。歴史を客観視する意味で是非進めて欲しい。歴史の客観視が難しいのは、人種偏見が入るからである。中国人の中には、「イギリスにやられたアヘン戦争より、日清戦争の敗北が中国にとっては屈辱だ」と感じている人も少なくないと聞くが、歴史学者には、人種偏見なしに長期的視点から大局的考察を深めて頂きたい。

ところで、明快な表現で、読者を「成る程」と唸らせるのが得意な作家 司馬遼太郎は、「日清戦争を起こしたのは、陸奥宗光と川上操六の2人であるといって良い」と言い切っている。それに倣って言えば、私は「日米戦争を起こしたのは、石原莞爾と松岡洋右の2人であるといって良い」と言いたくなるが、どうだろうか。

始めに断っておくが、私は、日本だけに日米戦争の責任があると言っているわけではない。

歴史は、とかく勝者の歴史に成りがちであるが、敗者だけが悪いという戦争はあり得ない。最近、「日米戦争を起こしたのは誰かールーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず」(藤井厳喜、稲村公望、茂木弘道著、2016年1月、勉誠出版)が出版された。同書によれば、第三一代米国大統領フーバーは、著書「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)の中で、「日米戦争は、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが、日本に向けて仕掛けたものであり、日本の侵略が原因ではない」という主張を実証的に展開しているそうである。

暗号解読に関して言えば、敗戦国であるが故に、日本の暗号が解読されていたことばかりが話題になるが、日本も米国の暗号を解読していた。

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ここで一言。
私がこのシリーズで最もご理解願いたいのは、現在、社会基盤となっている現代暗号理論は、可なり強固な数学的基盤の上に構築されており、研究者達によって、公開の場で評価された暗号は、運用を誤らなければ、絶対と言って良いくらい解かれるものではないということである。数千年の昔から第2次大戦まで国家の命運をかけて使用された古典暗号も、鍵の交換・管理の甘さを突かれたことによって解読されたことが多いのだが、この点は、1970年代に始まる現代暗号も同様である。秘密鍵をどう管理するかが問題となる。いくら頑丈な金庫を作っても、その上に鍵を載せておいたのでは、話にならない。

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さて、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾奇襲攻撃の少し前、11月26日に米国から届いたハルノートが、事実上の宣戦布告だとも言われるのは何故か。日本政府は、それまで、米国の暗号を解読することによって、米国が、中国大陸からの全面撤退などと言う過度に厳しい要求を日本に突きつけて来るとは予想していなかった。しかし、チャーチルも蒋介石も、米国が早く参戦してくれないと、イギリスはドイツに、そして中国は日本にやられてしまうと米国政府にせっついた結果、米国政府の態度が急変したとも言われている。米国からの想定外の要求に、和平派の東郷茂徳元外務大臣はじめ、東条内閣の閣僚会議はせきとして、声無しという雰囲気であったと伝えられている。

中国大陸からの全面撤退など、今から考えれば、当然ということになるが、当時、それをやれば日本陸軍はクーデターを起こし、日本は内乱状態になっただろう。この時点では、どうしようもなく、無謀な戦争に突入したとも言える。

何故、そういう状況に追い込まれたのか。ここで、話は冒頭に戻る。私は、満州事変から太平洋戦争までの経緯に必然性を感じている。満州事変を起こしたのは、石原莞爾だけのせいだけではないが、石原は、戦後、東京裁判のA級戦犯リストを見て、「この中に戦犯はいないではないか、何故、俺を戦犯に指名しないのだ」と嘯いたと伝えられているので、とりあえず、彼に責任を取ってもらおう。

次に、大きな過ちは、日独伊三国同盟だろう。これについては、大島浩駐独大使の責任も大きいが、当時の外務大臣松岡洋右に代表してもらおう。松岡は、アメリカとの戦争を避けるために、三国同盟を結んだようだが、本人の意図に反して、米英を敵に回してしまった。米国オレゴン大学での留学経験のある松岡にして、対応を見誤ったのは何故か。米国人は強く出れば引っ込むと読んだようだ。アメリカと言っても、地方での体験だったからか。戦争間際、イギリスのチャーチルから、「英米の鉄鋼生産量は9千万トン、日本は7百万トンだよ。これで勝てると思っているのかね」と言われ、「日本には大和魂がある」と答えたというが、これは、苦し紛れの応答で、勿論、本心ではないだろう。本人も戦後、「我が人生、最大の失敗」と悔やんだように、結果的には失策だった(「悔いもなく、恨みもなしに逝く黄泉路」という辞世の句を残してはいるが)。

因みに、海軍軍令部などの反対を押し切って、真珠湾の奇襲を敢行した山本五十六連合艦隊司令長官について言えば、海軍次官の時代は、米内海軍大臣、井上軍務局長とのトリオで、暗殺覚悟で米国との戦争に反対し、「やるなら、アメリカへ行って、煙突の数を数えて来い」と言ったという話は有名だが、半年か1年位暴れてから、講話に持ち込めば良いと考えていたというのは本当だろうか。真珠湾の奇襲成功に沸き立っていた頃、山本は、「敵の寝首を掻いたとて武人の誉れにあらず。敵の戦意をかき立てるのみ」とつぶやいたそうである。一旦、熱狂して走り出してしまえば、容易に止められるものではない、ということも分かっていたのではないかと推測している。

真珠湾攻撃については、海軍もそれなりに情報収集をやっていたのは当然だが、攻撃を敢行するかどうか、躊躇していた永野修身軍令部総長の、「山本君がそこまで言うのなら、やらせてみよう」という決断は、いかにも日本的情緒の勝った情報活用だった。

チャーチルやルーズベルトが、「してやったり」とほくそ笑んでいるとは露知らず(彼等の謀略も、第2次大戦後の冷戦までの長期的視点に立って考える時、米英の世界戦略として妥当だったかどうかは別問題だが)、真珠湾攻撃に続いて、香港陥落、そしてシンガポール陥落・・・提灯行列に日本中が沸き立つ中で、小学校3-4年生頃の私は、「今日は何か戦果があった?」と新聞を読んでいる隣の家のおばさんに尋ね、昭和17年(1942年)春、名誉の戦死を遂げた加藤建夫率いる隼戦闘隊の歌「エンジンの音、轟々と隼は往く雲の果て、胸に描きし赤鷲の印は我等が戦闘機・・・干戈交える幾星霜、七度重なる感状の功の陰の涙有り、あー今は亡き武士(もののふ)の笑って散ったその心」を無邪気に歌っていた。

さて、石原莞爾は、太平洋戦争の戦争犯罪人はペリーだと言っていたそうである。必然性と偶然性が織り成されて歴史は形成されていく。1853年(嘉永6年)の黒船来航によって、アヘン戦争にやられた中国のようになってはいけないと言う国防意識が高まり、それが、いささか過剰反応を起こして、半ば必然的に太平洋戦争に繋がったことを考えれば、ペリー戦犯説も、当たっていなくもない。

何故、欧米列強が、アジアの植民地化を進めたのか。その背景には、産業革命がある。その底流には、近代科学の発展があり、それを更に遡れば、ギリシャ哲学に行き着く。その意味で、私は、昔から、石原莞爾より遥かに飛躍して、半ば冗談に、「戦犯はプラトン」だと言ってきた。次回は、数学的土壌の上に花開く楕円暗号を例に、この問題を議論しよう。数式は使わないので、ご安心願いたい。

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