第712号コラム:上原 哲太郎 会長(立命館大学 教授)
題:「フェイクメディア跋扈の時代」

4月になりました。本来、新年度は晴れやかな気持ちで迎えたいものですが、今年度は大変憂鬱な気持ちを抱えての4月となりました。ウクライナにおける戦争で亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、戦火で大変な思いをされている方々に寄り添いつつ、一刻も早くこの戦争が終わることを本当に祈って止みません。

それにしても今回の戦争は、21世紀に入って最大の武力衝突であるとともに、これまでで間違いなく最大規模のハイブリッド戦争であります。ハイブリッド戦争とは一般に、武力衝突において正規軍と非正規軍が渾然一体となっていること、サイバー攻撃による応酬や、虚実交えた情報戦が組み合わされることを特徴とする戦争と理解されています。サイバーセキュリティの世界では、この戦争以前からウクライナとロシアの間でサイバー攻撃の応酬があったとされています。少なくともウクライナの電力システムに対し2015年と2016年にサイバー攻撃を行ったグループSandwormはロシアとの関係が強く疑われていますし、今回の武力衝突の直前には、衛星通信会社Viasat社のモデムへ感染するマルウェアによるDDoS攻撃が確認されていますが、これもロシアとの関連を指摘する声があります。 3月下旬には、世界中のエネルギー産業や航空機産業に対するサイバー攻撃を活発化させているとして、英国の情報機関がロシアの情報機関を名指しで抗議しています。一方ウクライナ政府は武力衝突が発生してから30万人規模の「IT軍」を組織したとされていますが、構成員の多くは民間のボランティアであり、まさに非正規軍によるサイバー攻撃部隊といえます。この動きに呼応するようにAnonymousの中にウクライナ支持を訴えるグループが現れ、ロシアやベラルーシのさまざまな組織から情報を盗み出しては広く流出させています。

武力攻撃と同時に両国間で激しい応酬が行われているのが情報戦です。特にウクライナ側は武力では劣勢に立っているため、諸外国の支援を得るために積極的に内外にあらゆる情報発信を行い、この点では優位に立っています。一方ロシア軍は、十分に秘匿されていない手段を用いて連絡を取り合いながら進軍したため、情報機関はもちろんアマチュア無線家にすら通信を傍受されてしまい、その動きを早くから把握されました。その内容はネットに次々公表されてロシア軍の兵站の脆弱さを露わにしましたし、捕虜からはロシア軍に多くの徴集兵が含まれることや彼らが実際の武力侵攻を知らされずに前線に投入されたことなどが聴取され、その様子がSNSやマスコミに流されることで、プーチン政権がいかに現場を無視して今回の侵攻に踏み切ったのかが強調されました。最近ではロシア軍のキーウ周辺からの撤退につれ明らかになった民間人に対する非道な行為が広められており、これもロシアに対する強い非難とともに諸外国のより強いウクライナへの支持、支援を集めています。

これに対しロシア側は、ただひたすらにこれらの情報を否定し、フェイクと一蹴することで対抗しています。この手法は非常に稚拙に見えますが、それでもロシアの現政権を支持する人たちにとっては有効に機能してしまっています。それは、写真や動画、音声ですら簡単に改ざんして、全くのフェイクニュースを作成することが既にできる時代であることを、多くの人が理解してしまっているからであろうと思います。最近のスマートフォンは、撮影した写真の中から要らない部分、例えば背景に映り込んでしまった人を簡単に消去するアプリケーションを標準で備えるようになりました。他にも自撮りにおいて肌を綺麗にしたり、目を大きくパッチリさせて簡単に別人のようにできるアプリがあることは、多くの人に知られています。そもそも標準のカメラアプリも、受光素子から得られたデータをAI技術を用いて大幅に加工するのが当たり前になりました。手ぶれ防止のための加工はもちろん、夜景を綺麗に明るくしたり、料理を食欲をそそる色合いにしたり、スマホのレンズの小ささからくる広角時の周辺歪みを補正したりすることは常に行われており、もはやスマホのカメラは「真」を「写」しているものとは言えなくなってしまっています。

ZoomのようなWeb会議アプリではバーチャル背景により居場所を容易に偽装できるようになっただけではなく、Snapchatのようなアプリで顔をすげ替えて別人になれることも知られるにつれ、動画も容易に信じられないことも次第に常識になりつつあります。このような状況においては、各種情報に対するいかに無理筋に思われる「フェイク」との主張も、覆すのは容易ではありません。一部には、ロシアのネット規制の間隙を突いて戦場で起きている現状を「正しく」ロシア国民に伝えることが出来れば、ロシア国内でも反戦気運が高まるのではないかという期待がありますが、私は悲観的です。現在ロシアでは民間人に対する攻撃はウクライナの民族主義者によるものと報道されていますが、これをフェイクと判定するのは容易ではありません。ロシアのSNSではロシア兵の遺体写真が次々と広められているようですが、こうしてウクライナに対する憎悪を煽られた人たちが簡単に考えを変えるとは思えません。

ちょうど10年前、私はこのコラムの第204号「デジタル画像とフォレンジック」で、画像に対するフォレンジック技術の研究が今後重要になると書きました。
https://digitalforensic.jp/2012/04/12/column204/

それからというもの、自分でも画像改ざん検出の研究を進めてみたのですが、この10年残念ながら画像の改ざんが容易になるのと反比例するように、改ざんの検出は技術的に難しくなっています。特に画像に対する加工の痕跡を発見する手法は原理的な難しさを抱えるようになりました。それは、既に述べたように今の写真はそもそも最初から「真」とは異なる加工されたデータだからです。なので、今後は、電子透かしやハッシュ、電子署名などの技術を使った「改ざんがないことの証明」や「情報の出自の証明」に力点を移さざるを得ないと思います。これらは要素技術としては既に確立していますが、社会実装のためにはフェイクメディアの被害に対する広い理解と、それを防止するための社会的コストに対する理解、特に様々な情報の出自証明が広まるにつれて生じるプライバシー問題への理解を広げ、相反する利害への落とし所を模索する必要があります。それは気が遠くなるような遠い道のりです。

いま私たちに突き付けられているのは、何がファクトで何がフェイクか簡単には判らない時代において、プロパガンダはより効果的に働いてしまう現実です。今後我々に与えられた情報は、例え正義に見えても受け入れる前によく吟味する必要があろうかと思います。まして、今後この戦争が長引けば長引くほど情報戦も激化し、いよいよ本物との区別が極めて難しいフェイクメディアが跋扈する危険があります。このような精巧なフェイクメディアがお互いの憎悪を煽るために使われ、一層多くの人命が失われる事態を招くことを危惧しています。いよいよ情報が人命を左右する難しい時代がやってきたと、大変暗い気持ちにならざるを得ません。我々もフェイクメディアを見分ける研究は続けますが、現実にはさまざまな困難があることは是非ご理解下さい。とにかく一刻も早く、ウクライナに平和が訪れますように。

【著作権は、上原氏に属します】