第762号コラム:須川 賢洋 理事(新潟大学大学院 現代社会文化研究科・法学部 助教)
題「ウクライナ戦一年を機にサイバー戦法規を改めて考える」

ロシアとウクライナの戦争(※あえて”戦争”と呼ぶこととする)が始まって一年以上が経過した。現代戦においては「5th Domain」とか「第5の戦場」などと呼ばれるサイバー空間での戦いが重要な要素であることは今更言うまでもない。IDFが開催するデジタル・フォレンジック・コミュニティでも2017年には、中谷和弘東大教授にサイバー戦における交戦規定(広義の国際法)である『タリン・マニュアル2.0』について講演いただいているし、5番目のセキュリティ系温泉シンポジウムは「サイバー防衛シンポジウム熱海」と銘打って文字通りサイバーディフェンスやサイバー安全保障を議論の中心に据えている。

 今回のコラムでは、ロシア-ウクライナ戦争やこういったシンポジウムなどを通して見えてきたサイバー戦法規の問題点について考えてみたい。しかし、強い情報コントロールが行われている戦争当事国の事を述べても推測の域を出ることはできず、また、通常の軍事攻撃とサイバー攻撃を含むそれ以外の手段による攻撃比率を1:4とするという、いわゆる「ゲラシモフ・ドクトリン」についても、その呼称の元となったワレリー・ゲラシモフ参謀総長本人が最高司令官についてしまったので、その効果の考察は終戦後までは難しい。そこで、日本の国内法とサイバー戦との関係を考えてみることにしたい。と言っても、通常の戦争や戦闘に関する法規すら満足に整っていない国であるので、言うまでもなくサイバー戦に関する法規などまったくない。なので、箇条書きに思いついたことを挙げていくととする。

 まず第一に、これはずっと以前から言われていることであるが、サイバー空間においてはテロと戦争の境界が不明瞭だという問題がある。現実社会では爆弾テロとミサイル攻撃の違いを識別することは容易である。ここで考えてみてもらいたいことは、テロの管轄は警察であり戦争の管轄は軍隊(自衛隊)であるということだ。化学テロのようなものが起きた場合でも、あくまでも警察の要請で自衛隊の化学防護隊が除染などに協力するという形になっている。サイバー攻撃の場合、それが単なるテロで終結するものなのか軍事侵攻の一環なのかが分からない。つまりどの時点で軍隊の管轄になるのかが分からないことになる。軍を動かすというのは法律上は非常に大きな意味を持つことであるので、その基準は明確になっている必要があるわけだが、現状、この答えを明言できる者はおらず、その為の法学研究は恥ずかしながら情報法学者の間でもほとんど行われてこなかった。

 なぜそうなったのかということに関しては多くの理由があろうが、そもそも日本ではリアルな戦争法規でもほとんど研究されてこなかったのであるから当然のことであろう。それでも防衛大学校などを中心に交戦法規(※ラテン語で”jus in bello”という)は細々とでも研究や講義が行われてきたと聞いている。また交戦法規は、正当防衛や正当業務行為、違法性阻却といった法理論に通じるところがあり、いざとなれば通常の法的スキームを流用して参入できそうだということも考えられる。しかし開戦法規(※ラテン語で”jus ad bellum”という)はその性質上、日本では語ることさえタブーであるが故にまったく触れられてこなかった。そうであればサイバー領域の戦争法規などは、なおさら誰も検討もしていなかったからであると反省も兼ねて言わざるをえない。

 ウクライナへの武力侵攻が始まった時に、一部の情報法学者の間で、いくつかの仮想事例について国内法との関係でどうなるのかということが話題になったことがある。例えば、「勝手にサイバー義勇兵を名乗って戦争当事国にサイバー攻撃を行ったらどうなるのか?」等といったシュミレーションである。言うまでもなく、この行為は不正アクセス禁止法違反や電子計算機損壊等業務妨害罪に該当するので、犯罪となる可能性が濃厚なのであるが、このような議論の中で、刑法93条の存在というものがクローズアップされた。93条とは「私戦予備及び陰謀罪」に関する記述でその条文は『外国に対して私的に戦闘行為をする目的で、その予備又は陰謀をした者は、三月以上五年以下の禁錮に処する。ただし、自首した者は、その刑を免除する。』とある。ちなみにこの条文は明治40年に刑法ができてから2019年まで一度も使われたことがなく、IS(イスラム国)に参加しようとした人間を阻止する目的で身柄を拘束するためにこの年に初めて適用された。しかし不起訴になっているのでこの条文によって罰せられた前例はない。これがサイバー戦法規とどう繋がるのかということであるが、経緯は省略するが最も重要なことは刑法93条は<私人が開戦の端を開くことはない!>という前提で作られている条文だということである。確かに明治時代には一私人が戦争を始めるなんてことは非現実的であった。しかしネット時代の今日においては言うまでもなく過激な一人のハッカーのサイバー攻撃によって開戦してしまう危険は十分にある。サイバー開戦法規として皆が見落としてきた一例だと思っていただきたい。

 通常の開戦法規・交戦法規はもちろんのこと、いやそれ以上にサイバー開戦法規・サイバー交戦法規について目を背けずに少しずつでも研究していく必要があると言える。そしてリアル空間で「地政学」の重要性が叫ばれているのと同様に、サイバー空間でも地政学を考慮していく必要がある。筆者はサイバー空間の地政学には二つの観点が存在すると考えている。一つは通常空間つまり本当の地政学の関係がサイバー空間にも反映されるということ。隣国との外交が非友好的なものになれば、そこからのサイバー攻撃もまた増えるという我々が通常体験していることである。もう一つはネットワークや通信線の構成・構造、VRなどICTインフラに起因する地政学。ルートDNSやIXの配置、海底光ケーブルの張り巡らし方などから考えなければならないサイバー空間特有の地政学である。さらに将来的には(もしメタバースのようなものがもっと流行し身近なものになればという前提だが)、メタバース空間も攻撃対象とされるかもしれない。仮にメタバース上に行政手続きができる仮想役所などがあればそこも攻撃されるであろうし、このような電脳空間はディス・インフォメーションを流布して世論を攪乱するオールドメイン攻撃や認知戦/認識戦を行うに格好の場であることを忘れてはならない。

 このようなことを書くと、戦争に巻き込まれる危険や政治権力の硬直化などを危惧する人も多かろうと思われるが、こういう類いの法制は、戦時下に作るからこそ人権や行動に対する規制が大きくなるのであって、そのようないわゆる政治権力の専制化を防ぐ為にも、むしろ平時に作っておいたほうが良いものなのだということを知っておいていただきたい。

(追記)

 この原稿を書いている最中に岸田首相のウクライナ訪問の報が流れてきたので、当初予定とは変更して少し内容を書き直した。本来であればポーランドに戻った後に公表されるべき事項が訪問直前に公表されたのは護身のための一つの情報戦のやり方だと思われるが、他国では考慮する必要なないことにまで対応せざるをえないということはそれだけ本来目的達成へのエネルギーが割かれるということであり、本末転倒である。諸外国に比べるとこの種のことにおける我が国の法制は無いに等しい状態であり、米国やNATO諸国とまったく同レベルとまでも行かなくても、せめて八割九割のレベルの法やルールを持つ国にする必要があろう。

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