第103号コラム:須川 賢洋 理事(新潟大学 大学院現代社会文化研究科・法学部 助教)
題:「研究機関に求められるものは何か?」

 筆者は「大学」と世間で呼ばれる組織に勤めている。冒頭からいきなり余談になるが、「大学」と「学校」、「学生」と「生徒」という言葉は厳密には意味が異なり、法律上も使い分けられている。大学と学校の違いの一つは、研究機関としての機能を有するかどうかにある。今回は、この研究機関に期待されることは何なのかについて、デジタル・フォレンジックにも触れつつ、日頃思っていることを述べてみたい。なお、本文はあくまでも私見…というよりは大学に居る者の私怨(?)も入っているものなので、その辺りは笑い飛ばしていただきたい。
 「事業仕分け」に代表されるように、世の中において何でも合理性や経済性が求められており、そのしわ寄せが多くの大学や研究機関にも押し寄せている。先の事業仕分けでも、宇宙開発予算など多くの科学技術研究費まで減額を余儀なくされたことは記憶に新しい。もっとも研究機関にこうした採算主義が要求されるようになったのは、今回の事業仕分けからでなく、もう数年程前のことであるが・・・。景気の悪化は、研究機関に対しても直ぐに成果の出ることを要求するようになり、基礎研究や長い年月を要する研究を否定するようになってきた。こういった世論をあおってきたマスコミには研究機関に属する者であれば誰もが苛立ちを覚えているはずである。さらに最近は、研究者の仕事の成果を、民間企業の営業マンの成果と同様な方法で評価しようとしてきている。そもそも、研究とは利益を追求することとは対極にあるものであり、その評価は民間企業の利益や営業成績などと同様の物差しで測ることはできない。

 前置きが長くなったが、当然であるがこういった風潮は、研究に良い結果を与えない。特にデジタル・フォレンジックのような、新規分野かつ学際的な領域の研究にしわ寄せがくる。成果主義や評価主義が激しくなると、当然のごとく誰もが、手っ取り早く評価される領域をテーマに選ぶ。そうするとデジタル・フォレンジックのように、研究成果が見えにくい分野は当然のごとく後回しにされるわけである。IT専門家の間ではようやくデジタル・フォレンジックという言葉が定着してきているが、研究者でその言葉を知っている人はまだほとんどいない。ましてや、いわゆる文系学部である法学や、経済・経営などの学部では、ほんのわずかな者しか知らない言葉になる。それよりは「エコロジー」のような一般受けするキーワードを看板に選ぼうとする人(組織)は当然多くなる。特に法律学は、伝統的に「法解釈」を研究することに重きをおいており、実務において利用されるデジタル・フォレンジックの研究は、同僚から「おまえは何をやっているの?」と思われてしまうところがある。わかりやすく言えば、デジタル・フォレンジックは研究業績としての評価ポイントが低いものになりかねないということになる。こういった度合いが大きくなると、当然、国全体として研究の進展に鈍化をかけてしまう。
 「だったら、別の評価される研究でポイント稼ぎつつ、学際領域の研究も並行してやれば良いのではいか?」と言われそうであるが、少なくとも学部を主とする従来型の大学においてはその余力も無くなりつつある。というのは、最近の大学のスタッフは、小中学校の学級担任のような仕事や、地方の高校を回って「あなたの学校の生徒を、当大学の学生として下さい!」と頼むような営業もやらなければならなくなっている。つまり研究に割くことのできる時間そのものがどんどん減ってきているのだ。下手に大学を合理化したが為に、一人あたりの研究以外の仕事の負担が増えている。これも研究に良い結果を与えない。
 皆さんには今更言うまでもないことだが、研究力の低下は、国力の低下としてボディーブローのように後からじわりと悪影響が出てくる。

 もう一つ、大学の合理化との関連で筆者が強い危機感を覚えていることがある。それは、大学のコンピュータやネットワークシステムなどのアウトソーシングが急激に行われるようになってきたことである。ほんの2~3年前まで大学では、メールサーバやWebサーバなどはすべて自前で持ち、ネームサーバやドメインなども自身で管理していた。各大学には少なくとも一人は、全学のすべてのシステムを把握し、どこにどんなサーバがあってどこにルータがあり、どのようなネットワーク配線になっているのかを把握している教員がいた。しかし、これらを全部まるごと外部に委託する大学が増えてきてる。わかりやすく言えば、xxxxxx-u.ac.jpのメールやWebを丸ごとGoogle社などに委託運用してもらっているのである。これは研究機関からコンピュータ・ネットワーク運用のノウ・ハウを消滅させることに他ならない。ベースとなるコンピュータシステム自体を放棄してしまえば、デジタル・フォレンジックの研究どころではなくなる。確かに採算だけを考えれば、2~3個の学部しか持たない単科大学などでは、システムをISP/ASPなどに丸投げしたほうが安上がりなのは事実である。しかし、日本のインターネットは学術ネットワークとして大学を中心に研究し牽引してきたのである。これを放棄してしまうことは、海洋国家である日本国がその海運力と海軍力を丸ごと他国に依存しようということに等しい。そして、何よりも忘れてならないことは、GoogleであれSUNであれMicrosoftであれIT業界に冠たる企業はすべて、大学の一研究室の片隅で大学の持つコンピュータ資源を使いつつ生まれ育ったものだということである。大学のコンピュータやネットワークシステムを丸ごと民間委託することは容易い。しかしそれは同時にその大学から、強いては日本国内から、第二第三のGoogleを輩出する機会を永遠に放棄することになるのである。

 筆者はこういった事態を打破する方法は一つしかないと思っている。極めて他力本願ではあるが、財界や民間企業といった勢力からの圧力しかないであろう。「我が社は、時流に流されずに研究をしっかりやっている大学(研究室)からの学生しか採用しません!」と言ってもらうに限る。ちょうど今期の就職活動が終盤となっているが、企業の皆様方には、世間受けする研究をしてきたことをアピールする学生よりも、ぜひとも地味な分野でもコツコツと研究・学習してきた学生を採用していただくようにお願いしたい。
 かつて小泉純一郎が国会で紹介した越後長岡藩の「米百俵」の話を思い出して欲しい。これは「その日の食い扶持に苦労している時に救援米(救援金)としてもらった米を教育費に回した」という逸話である。研究機関に向けた政策は、今こそもう一度、この米百俵の精神に戻るべきでなかろうか。

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