第153号コラム:佐藤 慶浩 理事(日本ヒューレット・パッカード株式会社
                                    個人情報保護対策室  室長)
題:「不作為は作為のリスク軽減や回避にならない」

「作為」と「不作為」という言葉がある。大まかには、作為の罪とは、禁止行為をすることへの罪。不作為の罪とは、なすべき行為をしなかったことへの罪。ということになる。
これを、悪いことをした罪と良いことをしなかった罪のようにとらえてしまうと、なんとなく、前者はマイナスで後者はプラスマイナス・ゼロのように見えてしまい、不作為の罪は作為の罪より比較的軽いのではないかという感じがしてしまうが、そんなことは決してない。どちらも同罪となる。
ただ、それを理解してもなお、ある行為をすることにもリスクがあり、しないと不作為が問われるリスクがあるような場合には、不作為は作為のリスクの軽減や回避になるように思ってしまうことが考えられる。しかし、「不作為は作為のリスク軽減や回避にならない」ことは自明のはずであるのだが・・・それを検証してみよう。

第50号コラムで「インシデント・マネジメントに関する国際規格化の動向」を紹介した。
https://digitalforensic.jp/2009/04/23/column50/
そこでは、事前計画に基づく対応手順があれば、それに従うこととしている。これがなされることに疑問の余地はないと思うかもしれないが、そうとは限らない。たとえば、インターネットで大規模のサービスを提供している場合に、そこでセキュリティ・インシデントである可能性の高いイベントがあったとき、サービスを停止してセキュリティ侵害の有無を確認せよという手順があったとする。手順として当然のことかもしれないが、この状況に初めて遭遇したとき、ふと考えるかもしれない。「果たしてサービスを止めてしまって大丈夫なのだろうか?インシデントの可能性は高いが、必ずしもインシデントとはまだ言い切れない。もしもサービスを止めて確認したら、インシデントでないことがわかった場合、サービスを止めたことの責任を問われたりしないのだろうか?」と。
これと同じ心理状況が実際に福島原発の事故で起きてしまった可能性がある。

【毎日新聞】「検証・大震災:初動遅れ、連鎖 情報共有、失敗」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110404ddm010040023000c.html ※リンク切れ

これの「その2」に「放射性物質放出へためらう東電」という記事がある。
原子炉内の圧力が上がりコントロールできなければ、内部の水蒸気を放出する「ベント」という作業をして圧力を下げる手順があった。しかし、その状況に至りベントすべきところしなかったために、水素爆発を起こしてしまった。
実際のところは、ベントの作業指示の判断が遅れたのか、それを指示したが作業に時間がかかって間に合わなかったのかはわからないが、記事による限り、判断の遅延があったようだ。それならば、まさに、不作為の罪だ。

結果論からすれば、なぜ、即座に作業指示を決断しなかったのか理解できないかもしれないが、ベントすることにもリスクがあった点がポイントである。
これまでも不慮の事故で放射性物質が漏れてしまったことはあるが、誰かの意思決定により放射性物質を大気に自ら放出した前例はなかったそうである。ベントする必要はありそうだが、ベントせずに事態を収拾できる可能性がないわけでもない。その状況の中で、ベントする判断をした場合に、大気に放射性物質を放出したことの責任を問われないか。ということに一憂してしまったことが考えられる。しかし、その不作為の結果は、水蒸気の大気放出どころではなく、爆発によって建屋は吹き飛び、全部放出されてしまうという結果になったのである。

ベントという意思決定による作為の結果責任と、予期せぬ爆発による結果責任では、冒頭に書いたように、前者より後者の責任が軽減されるのではないかという錯覚があったのかもしれない。特に、後者については事前に確かだったわけではなく、結果論であればなおさらである。
これを考えるとき、今回のように、不作為による結果が深刻な事態である場合には、作為についての責任を免責することの是非を検討する必要があると思う。作為のリスクが軽減される何らかの環境がなければ、不作為が選択されることを防げないと考えるからである。日本においては、免責の環境整備が不得意だ。何かした人には何らかの責任を取らせないと示しが付かないと考えるからだろうが、誰か個人の責任をはるかに上回るような事故を防止するためであれば、それを免責するということは考えるべきであろう。

インシデント・マネジメントにおいては、この点を再確認することが有用だ。手順として当然のことを定めていても、それについて「作為のリスク」がないことなのかを確認する必要がある。もしあれば、そのリスクは誰が取ることになるのか?それが現場担当者であれば、あるいは責任者であっても、不作為は起こりえることを教訓にしなければならない。
このとき、これらの意思決定の過程にフォレンジックがなんらか役立てられないかというのは、おもしろそうなテーマかもしれない。「不作為は作為のリスク軽減や回避にならない」を当然のこととするのに何が必要かを考える機会である。

【著作権は佐藤氏に属します】