第154号コラム: 小向 太郎 理事(株式会社情報通信総合研究所 法制度研究グループ 
                       部長 兼 主席研究員、IDF「法務・監査」分科会主査)
題:「八百長のフォレンジック」

前回のコラムを「八百長のフォレンジック」として予告していたのですが、東日本大震災直後の配信となったため震災に関する内容に変えさせていただきました。
大相撲の八百長問題は、その後、特別調査委員会の調査によって八百長関与を認定された23人に対して、相撲協会が引退勧告や出場停止などの処分を示しています。
大事件が続くなかで、あまり世間の関心を集めなくなっていますが、デジタル・フォレンジックとも関係する話題なので、改めて取り上げたいと思います。

相撲の星のやりとりは、以前から囁かれていたものであり、事実そうしたことが行われていたのでしょう。
今回の発端は、警視庁が行っていた野球賭博に関する捜査で押収された携帯電話のなかに、八百長を持ちかけるメールが見つかったというものでした。
端末上で削除されていたメールのデータを復活されるのにデジタル・フォレンジックの技術が使われており、電子情報におけるデジタル・フォレンジック技術の威力を知らしめることにもなりました。
たしかに、強制捜査で押収すれば、そのなかに被疑者が隠そうとする証拠もみつけることもあり得るでしょうし、フォレンジック・ツールが有効に使われる場面だと思います。

しかし、強制力のない調査で、こうした個別の申し合わせについて立証するのは相当に難しいと思います。
今回の調査と処分に何となくすっきりしないものを感じるのは、客観的な証拠が多く得られるはずもない調査を経て、名前の挙がった者を調査・処分の対象としているからでしょう。
自白を半ば強要するようにして、自白の有無にかかわらず処分するのは、ある意味で魔女裁判を連想させます。
解雇処分を不服として地位保全などの仮処分を求める訴えが提起されていますが、どこまで行っても藪の中になるはずです。

いうまでもなく、任意的な調査によらざるを得ないのは、相撲の八百長が犯罪ではないからです。
本来、強制捜査によって知り得た情報は、犯罪捜査にのみ使われるべきです。
今回発覚した行為がほめられたことでないのは間違いないですが、別件の捜査過程で発見した情報を公表することは許されるのでしょうか。
世間の非難が大相撲側に集中していることもあり、当初反発していた関係者もそういった反論をしなくなっています。
どのような過程で公表されることになったのか、詳細は分かりません。
しかし、少なくとも捜査機関の判断で勝手に公表してはならないでしょう。
「犯罪ではないけど悪いこと」について、公的機関がある種の制裁を加えることを、あまりに無批判に受け入れるのは危険です。

ところで、今回の一件で、大相撲の人気の低下は決定的になってしまっているようです。
私は、人気が本当に末期的になっていることについて、この一件だけが原因ではないように思っています。

かつて、格闘技が好きな人間の間では、冗談半分であっても大相撲最強伝説というものがありました。
格闘技においては、体重とスピードと頑丈さが決定的に重要です。
自分より重くて速く動き、ダメージを受けにくい頑丈な人間を倒すことは、どんな技を持ってしても困難だからです。
巨体が猛スピードでぶつかり合うことを前提として鍛錬した力士の体は、数ある格闘技の中でももっとも分かりやすくそれを体現するものです。
まともにぶつかったら吹っ飛ばされ、殴ってもけっても効き目がない。銃弾を撃ち込むか、首と胴体を切り離さない限り倒せない(嘘です)。
かつて筒井康隆氏は、このような相撲取りの不気味さとすごみを題材にして、「走る取的」という印象深い短篇を書いています。
見世物としての大相撲は、こういった常人ではない肉体に裏付けられたものでした。

そもそも、大相撲の本場所は総当たり戦でもなく、最強の力士を決めるという意味での真剣勝負ではありません。
同部屋同士の力士が戦うことは、心情的に問題があると考えられているからでしょう。
こうした情実を前提とした世界で、時と場合によって手心を加えることがあっても不思議はありません。
そうしたしきたりが許容されてきたのは、相撲界にアウラのようなものが存在したからだと思います。

しかし、大相撲にそういうすごみがなくなっていることに異論はないでしょう。
すごみのない相撲取りがなれ合いでやっている取組を、誰が喜んでみるでしょうか。
大相撲の人気を復活させるためには、真剣勝負だと納得させるための抜本的な改革が、恐らく必要なのでしょう。

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