第191号コラム:林 紘一郎 理事 (情報セキュリティ大学院大学 学長)
題:「原発事故は「水に流す」な」

3.11の東日本大震災の事故を、大規模な自然災害にとどまらず歴史に残る大惨事にしたのは、東京電力福島第一原子力発電所の放射線事故であった。その原因究明に当たっていた政府の事故調査委員会は、暮れも押し迫った12月26日に中間報告書を公表した。その内容は未だ確定できない部分(たとえば、津波だけが放射線事故の直接的原因なのか、それとも地震そのものも原因の1つなのか)がかなり残されているが、大筋は押えていて、委員会が精力的に調査・分析をしたことが伺える。

この委員会の長を勤めているのは、「失敗学」の提唱者として有名な畑村洋太郎氏(東大名誉教授)である。失敗学は、従来の学問がすべて「成功学」であったことを逆転させる発想で、私が関係している情報セキュリティなどでは、不可欠の発想法である。しかし、残念なことに「情報の公開」を制度的に保障するという伝統を持たない我が国では、分析に必要な事故情報が集まらないことから、失敗学会もできたが期待されたほどの成果を挙げていない。そこで今回のお役目は、同氏にとって「起死回生のチャンス」と思われ、分析に力が入っているのも頷ける。

私は経済産業省の研究会で畑村氏と同席する機会を得て以来、その理論に共鳴すると同時に、「日本でその方法論が普及しないのは、(情報開示の伝統がないこと以外にも)我が国に固有の事情があるからではないか」という疑問を禁じ得なかった。いろいろ思案した結果、ふと我が国には「水に流す」という言葉があるが、それは英語にもある表現なのかという疑問が浮かんだ。そこで和英辞典を引いてみると「forgive and forget」という訳が当てられていることを知った。そうか、これだ、これだ。水に流して(忘れて)しまっては、失敗学にならない。この傾向が強い我が国では、失敗学が失敗してしまう理由が分かったような気になった。

しかし、しばらくして冷静になってみると、英語の表現があるということは、程度の差こそあれ外国にもある現象だから、それだけでは我が国の事情を説明したことにならないことに気づいた。たまたま考えを巡らすうちに、新しい年を迎えた。すると、あちこちのTV局で忠臣蔵をやっている。「水に流す」ことが得意なはずの日本人が、特定のテーマになるとこれほどまでに執着心を示すのはなぜだろう?「水に流す」が「forgive and forget」なら、「恨みを忘れない」はその対偶に当たる「never forgive, never forget」ということになるが、日本人もある閾値を越える事象には、こちらの対応になるのではないか、という仮説を思いついた。諸外国が死刑を廃止する中で、わが国の世論に死刑存続論が多いことの心理的背景も、説明できそうに思えた。

そこで改めて forgive と forget のマトリクスを作ってみると、以下のようになる。

forget never forget
forgive 水に流す 失敗学
never forgive 概念矛盾 仇討、ハラキリ

組合せとしては4つのパターンがあり得るが、never forgiveなのにforgetしてしまっては許すも許さないもない。つまり、この組み合わせは「概念矛盾」となって存在し得ない。残る3つのうち、どうやら日本人はforgive – forgetという「寛容・忘却路線」か、never forgive – never forgetという「強硬・執着路線」かの、二者択一に走りがちなようだ。これに対して失敗学は、forgiveするが決してforgetしないという、「冷静・したたか路線」である。日本外交にこうした「したたかさ」が欠けていることは、広く知られているが、どうやらそれは日本人に広く共有されている性格のようである。

失敗学を今回の原発事故に生かせば、今後もいくつかの教訓が見出されていくだろう。最終報告では、新しい知見が多数含まれていることを期待したい。そうした成果を生み出すのは、「水に流し過ぎず」「いつまでも拘り過ぎない」という中庸を得た態度であろうかと思われる。後者は例外的態度で、前者が日本人の陥りやすい態度だとすれば、次のような箴言が意味をもつものと思われる。「原発は水で冷やせ。放射線の汚染物は水で洗い流せ。しかし、事故そのものを水に流してはならない」と。

【著作権は林氏に属します】