第270号コラム:秋山 昌範 理事(東京大学 政策ビジョン研究センター 教授)
題:「薬害対応とデジタル・フォレンジック」

イノベーションなどの新しい国家施策が示され、iPSなど医療分野でもイノベーションが期待されている。医療分野における研究開発の最初は、山中教授が行っているようなラボの中での基礎研究、その次が前臨床というプロセスで、動物実験等を行う。ここまでは日本の得意分野だが、次の臨床研究になるとヒトへの研究を対象とし、今まではこの基礎と臨床の間にデスバレー(死の谷)があった。さらに、この最先端臨床研究と次の実用化(普及)の間にもっと大きなデスバレーがあり、医療については他の産業分野よりもはるかに大きな谷がある。どの分野でも大事だが、特に医療においては人命が第一であるので、まず動物で実験し、次いでヒトに応用する。ヒトを使う際の最大の制約は、倫理の問題とともに、経済的問題である。どんな産業でも同じだと思うが、出始めの最先端技術では、たとえ性能は良くても、多くのリスクが潜んでいる。

できるだけ早く普及させたいが、初期ロット不良はよくあるので、急速な普及にはリスクが伴う。したがって、初期の段階では慎重に投与する必要があるが、普及が遅いと新薬が必要な患者であっても、その恩恵が受けられない場合が出てくる。海外ではそのトレードオフ対策として、新薬承認後の初期段階においては限られた医療機関の恵まれた患者のみが最先端の治療を受けられるようになっている。別の言い方をすると、すべての市民が最先端医療を受けられるわけではない。

一方、日本は皆保険であり、すべての国民が等しく全ての病院で同等の医療を受けられ、これをフリーアクセスと呼んでいる。そのため、18万弱の医療施設がある。我が国はこのフリーアクセスのおかげで、新薬は薬事承認された瞬間に18万の病院で使えるようになる。専門医で無くても、投与可能になっている。一方、近年のドラッグラグの解消政策で、我が国でも新薬が世界に先駆けて日本で投与できるようになりつつある。その最初の例がイレッサと言う肺がんの特効薬である。これは、1840病院・診療所で使われた。しかし、副作用による多くの死亡者を出してしまった。日本には製薬会社が数百あるが、大手3社ですら市販後調査を行うメディカル・レプレゼンタティブ(MR)はせいぜい数千人しかいない。通常は千人もいないし、イレッサを売った企業には数百人しかいなかったようだ。これが1840施設に張り付いて副作用チェックをするのは現実的でなく、後手々々に回り、死亡者が出てしまった。死因のほとんどは間質性肺炎だが、これはイレッサに限らずほとんどの抗がん剤で発生する副作用で、DNAの複製と強く関わっている。抗がん剤を使った専門医ならよく知っており、その副作用の重篤さから簡単には処方できない。しかし、このケースは抗がん剤をほとんど使ったことがない医師でも使っており、フリーアクセスの制度上の矛盾といえる。

これまでの日本では、新薬といっても、人命まで奪われるほどの副作用は通常使用で起こらないと思い込んでいた。それはドラッグラグのおかげで、日本で最初に投与する時点では既に欧米で2~3年使われており、どういう副作用がどの程度の使用で起こるか等の、いわゆる初期不良にあたるような有害事象も出尽くしているので、注意喚起のための大量のドキュメントが薬と一緒に配られる。しかし、イレッサは世界で最初に承認されたのが日本だったので、どの位の投与量で、どの位の頻度で間質性肺炎が発症するか、十分には分かっていなかった。このように現行制度のままの医療イノベーションには大きなリスクを抱えている。メーカーにとっても一般国民にとっても多大なるリスクを抱えている。

この薬害対策にマイナンバーと情報連携基盤を活用できれば、ICTによるトレーサビリティが担保できる。新薬が医療機関で投与される過程において、今の薬事法はこのトレースを紙ベースで行うこととしているが、紙伝票を調べれば、どの病院に納品したかは判るが、実際にどの患者に投与したかをリアルタイムには病院の中ですら補足は難しく、紙中心の管理で(時間をかければ紐付けできるかもしれないが)、リアルタイムにどの医薬品のどのロットが誰に投与されたかはほとんど判らない。

欧米の医療制度では、初期ロットの安全性確保のために、新薬に対しては全数調査を義務づけていることが多く、また皆保険ではないので、製薬会社は、どの病院に売るかはマーケット戦略の中で決めていく。薬事承認後、薬代は患者負担だが、調査費用は製薬会社負担なので、少数精鋭の病院の優秀な医師にしか販売しない。また、それらには市販後調査を行うメディカル・レプレゼンタティブ(MR)と呼ばれる専門家の手厚いサポートをする。したがって、投与可能な病院数には人的資源に限りがある。日本には製薬会社が数百あるが、大手3社ですら市販後調査を行うメディカル・レプレゼンタティブ(MR)はせいぜい数千人しかいない。この人数は18万の医療施設をカバーするのに十分な人数だろうか。

このように、現行制度のままの医療イノベーションには大きなリスクを抱えている。使用した最先端新薬や医療機器の正確なトレーサビリティの重要性が重要なのは、未知なる副作用を含んでいる可能性があるからである。しかし、そのモニタリング情報は、究極のプライバシー情報でもある。新薬を使うような対象は難病であることが多く、投与を受けた患者はそれを他人に知られたくないと思う。しかし他の同じ病気の患者たちはその新薬で未知な副作用が分かった場合、直ちに自分にも知らせてほしいと思う。このように、他人のプライバシー情報が自分の安全性に役立つ場合は、プライバシーの衝突が起こる。連結可能匿名化やデジタル・フォレンジック技術を用いて、このプライバシーの衝突問題を解決できるはずだ。デジタル・フォレンジック技術やセキュリティを用いて、この市販後モニタリングをすべての国民に行うことができれば、それらをビッグデータとして解析し、有効なモニタリングをすることで、人手をかけなくても、安全かつ最先端医療がすべての国民に行きわたるだろう。

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