第542号コラム:辻井 重男 理事・顧問(中央大学研究開発機構 機構フェロー・機構教授)
題:「理念と現実―真贋の判定こそはモノ層から文化層まで貫く理念」

フェイクニュースが氾濫している。ネット世界での偽情報の拡大スピードは真正情報の倍以上とも言われている。偽情報戦略は昔からあったことで、その真贋判定は、戦国武将の命とりにも成りかねなかった。織田信長は、今川のある武将Aの筆跡を、1年かけて輩下に学ばせ、「寝返りを画策している」というAの自筆と見せかけた偽手紙を、今川義元が見るように仕向けた結果、Aは義元に討ち取られたそうである。義元は、元々、織田方から寝返ったAを信用していなかったので、偽情報と知りながら、良いチャンスとばかり、Aを討ち取ったとも言われており、どちらが上手か分からない。

閑話休題。IoT環境が広がり、万物が情報を発する現在、全てのモノ(物、人、組織)の真正性保証・真偽判別が不可欠となっている。

 そこで、PKI(Public Key Infrastructure)系の電子認証を、重要デバイスの耐タンパー領域へ埋込が必要となってきた。以前、本コラムでも書いたように(498号)、サイバートラスト(株)が事務局となり、2017年4月、一般社団法人セキュアIoTプラットフォーム協議会(辻井重男理事長、佐々木良一監事)が設立され活動が続けられている。その一環として、当協議会は、2018年度、総務省のSCOPE(戦略的情報通信研究開発推進事業)から委託研究「IoTデバイス認証基盤の構築と新AI手法による表情認識の医療介護への応用についての研究開発」を、中央大学と共同で受託し、デバイス層を基盤に、ネットワーク層、データ管理層、情報サービス層の4階層に亘って、研究開発を展開している。

特に情報サービス層では、現在主流の深層学習で問題となっている敵対学習を生じる恐れのない、リーマン幾何学に基づく新しいAI手法の研究に取り組んでいる。これは、中央大学の趙晋輝教授によって始められた画期的なAI手法である。

深層学習で、深刻な課題となっているのは、敵対学習により悪意ある者が、本物とは全く異なる偽モノを認識結果としてユーザに返すことによる被害である。これは、ニューラルネットワークによる深層学習が、教師付学習を行う際、過剰学習やローカルな最適解をグローバルな最適解と誤認識してしまうなどブラックボックス方式から起きる課題である。これに対して、本研究では、データ空間をリーマン空間と見做し、非線形特性をリーマン幾何学的な構造として解明して利用しているため、真贋判定に誤りは生じないのである。その成果を遠隔医療・介護や犯罪者特定などに活用する予定である。

さて、またしてもデジタル・フォレンジックと関係のない文化層に話を広げるのか?と言われそうだが、まぁ、暫くお付き合い願いたい。文化的社会層においても、現実を知り、その背景を洞察して真偽を探求しなければ、国家の命運にかかわるような歴史的誤りをおかすことになり兼ねない。例えば、世界最高の知性を目指した西田幾多郎一派の田辺元や四高弟(鈴木成高、高坂正顕、高山岩男、西谷啓冶)を初め、亀井勝一郎や吉川英治など、多く評論家や作家たちは、結果的に何故、戦争協力へ墜ちたのか?時代に阿る結果になってしまったのか?この問題については、現役の思想家・評論家等によって、多くの著書が出版されている。例えば、
菅原潤 著 「京都学派」 講談社 2018年
中島岳志著 「親鸞と日本主義」 新潮社 2017年
佐藤優 著 「学生を戦地に送るにはー田辺 元「悪魔の京大講義」を読む」 新潮社 2017年
などでは、いずれも思想的な、或いは宗教的な視点から論じられている。私は太平洋戦争の最中、小学校高学年だったが、流行歌、「(欧米列強の)東亜侵略百年の野望をここに覆す…」を勇ましく歌いながら歩き、近所のおばさんに「重男ちゃんは忠義な子なのね」と冷やかされたりしたものである。

何百年もヨーロッパの植民地になっているアジアを解放すべきだという考えが間違っていたわけではない。グローバル化が進み、米中が対立する現在、高山岩男の「ヨーロッパ世界も数ある近代的世界の1つにすぎない」という「世界史の哲学」は実現しつつあり、高山の先見の明を称えるべきかも知れない。「大東亜共栄圏」は理念として間違っていたとは言えない。八紘一宇、つまり、「神武天皇に始まる万世一系の天皇が、東亜を治めるべきだ」となると話は別だが。

しかし、日中戦争当時の現実はどうか。日米どちらに正義があるか、などと言う話ではない。現実は厳しい。日本は、中国市場をアメリカと争い、米国が日本に石油禁輸出を仕掛けると、東南アジアに侵攻して、石油を獲得せざるを得ないということになり、「日米開戦か、中国大陸からの日本軍全面撤退か」の選択を迫られるという状況に追い込まれた。若し、中国大陸から日本軍全面撤退と言うことになれば、陸軍はクーデターでも起こしたのではないかと私は想像している。

山本五十六は、海軍次官当時、米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長とのトリオで、遺書を懐に暗殺覚悟で対米戦争に反対し、「戦争するなら、アメリカへ行って、煙突の数を数えて来い」と言ったそうだし、零戦の設計者、堀越二郎は、「アメリカの国力は日本の百倍、とても戦争などやれない」と戦前、奥さんに話していたと、先日(2018年夏頃)、ご子息がテレビで語っておられたのが印象に残っている。

私が不思議でならないのは、次の2点である。
(1)輿論を先導すべき、思想家・評論家・作家達の多くが真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)のニュースに感動し、「これで、4年間(日中戦争)のモヤモヤが晴れた、すっきりした」と感じ、太平洋戦争の理念構築に協力したのは何故か。現在のようにGDPと言う数字はなくても、国力の差は、分かりそうなものだが。

彼等は、時代に阿った、空気を読んだ、忖度した、更には、心ならずも、圧力に屈してしまったという見方もあるだろう。数理哲学者下村寅太郎のように、「近代の超克座談会」で、専門分野以外のことには口を出さず、座談会の後、「もう、あの連中とは、議論するのは止めよう」と思った識者もいたのである。国力差と言う現実認識があり、勝敗は初めから明らかだと思えば、結果的に、時代に阿ることもなかっただろう。

戦争の当事者ではなくても、普通の勤め人だった私の父ですら、連戦連勝の昭和17年当時から、「この戦争は負ける」と言って、「何故?こんなに勝っているのに」と母親を不思議がらせていたし、「アメリカと戦争なんかしたらアカン」と言っていたオバサンも近所にいたというのに。「戦争が始まったら、自国の勝利に向けて努力するのは当然だ」という主張は良く分かるが、それは、庶民レベルの正義感であって、有識者は、より長期的・客観的視点に立つべきであろう。

もっとも、市井の人と違い、言論人は、「時の圧力に屈せざるを得なかった」ということも思いやらねば気の毒だという見方もあるかも知れない。しかし、数理哲学者下村寅太郎のように、「近代の超克座談会」で、専門分野以外のことには口を出さず、座談会の後、「もう、あの連中とは、議論するのは止めよう」と思った識者もいたのである。

(2)現在の評論家・思想家達の多くが、戦時中の有識者達の言動を評価するに際して、主に、思想的な面や人間的・人格的な側面から論じており、現実認識の甘さを指摘していないのが、私には不思議なのである。

と言う訳で、社会的テーマについては、理念と現実の関係は複雑である。真を追求し、贋を排除するため、現実認識を深め、現実の背景を広く洞察した上で、既存理念を活用し、また、新たな理念を構築することの重要性を痛感している。

終わりに、話をデジタル・フォレンジックに戻せば、今話題の暗号通貨・ブロックチェーンの基盤である楕円暗号(第476号コラム参照)は、哲学者加藤尚武先生に興味を持って頂いたように、技術系の中でも、理念と現実が完全に一致する稀有な例である。数学を理念(イデア)とし、「数学こそが、真なる現実的実在への訓練をもたらす」と考えた古代ギリシャのプラトンに、「完全な円に対応するRSA暗号は、円に無限に近い楕円に対応する楕円暗号に比べて、同じ安全性確保のためには、約10倍の鍵長を要する(無限小とゼロとは全く異質である)という我々の計算結果」を、近づいて来たあの世で見せて喜ぶ顔を見たいものである。

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