第13号コラム:辻井 重男 会長(情報セキュリティ大学院大学 学長)
題:「情報社会のDADAイズムとデジタルフォレンジックの役割
――― 社会的標本化定理は確立できるか ――― 」

 

皆様、お分かりのように、音声や映像、地震波など人間や自然が発する信号形態は、殆どがアナログです。アナログとは、時間軸上も振幅軸上も連続値をとることを言います。これらのアナログ信号をデジタル信号、即ち、時間軸上も振幅軸上も離散値に変換して、処理・編集、検索、加工、伝送などを柔軟に行う技術、つまりデジタル技術が現在のIT社会を支えています。

 

正確なことは省きますが、アナログ信号をデジタル化することによって、情報が失われることはなく、時間軸上の離散値(但し、無限の過去から永劫の未来までの全ての値)から、任意の時刻の振幅値が、正確に再現できることが、1948年、染谷 勲(当時、電電公社通信研究所)と情報理論の創始者シャノンによって、同時に証明されました。これを標本化定理と言います。情報社会の技術的な意味での基礎をなす数学的定理です(未来永劫と言うわけには行きませんので、技術的には、厳密には適用していませんが)。

 

昔、ある数学者に、この定理を紹介したら、可算無限個から非可算無限個の値が分るなんてことがあるのか?と信じてくれませんでした。その数学者は、周波数帯域制限という概念を理解していなかったのでした。

 

数学的な話はここまでですのでご安心下さい。先日、夜中目覚めたとき、デジタルフォレンジックは、社会システムのプロセスの中で、離散値の役割を果たしており、可能な限り、社会的な意味で標本化定理が成り立つようにするのが望ましいのではないかという妄想が湧きました。世迷いごとに付き合う暇のある方は聞いて下さい。

 

さて、デジタル技術は、逆説的なことに、社会的な組織や機能、あるいはシステムや情報を連続的に繋いでいきます。つまり、デジタル技術によって社会はアナログ化されます。しかし、そのままでは、権限や責任の分界点が曖昧になり、いろいろな不都合や混乱が生じますので、例えば、個人情報保護法や不正アクセス禁止法などの法律が定められたり、様々な規定や標準が設けられたりしています。これは社会的な意味でのデジタル化と考えられます。しかし、法制度は細かく決めれば決めるほど、効率を損ない、人々の創意やヤル気を削ぎますので、出来る限り、大雑把に決めておき(量子化誤差を大きくしておき)、人々の良識、倫理観に頼るのが、望ましいと思います。人々の内面はアナログ的状態です。

 

こうして、デジタル技術(D)は、社会的アナログ状況(A)を強め、そのことが法制度化という意味で、デジタル化(D)を拡大し、最後は人の心というアナログ的状況(A)が頼りになるという作用を社会にもたらしております。このDADAというプロセスを私は情報社会のDADAイズムとこじつけています。

 

さて、上のDADAプロセスの中で、デジタルフォレンジックは、どう位置づけられるでしょうか。技術的なデジタル化は社会システム的構造・機能、アナログ化すると同時に情報システム・データベースを大規模化・複雑化し、ブラックボックス化します。このような見えない状況を、要所々々で、証拠として「見える化」する役目を担っているのがデジタルフォレンジックではないでしょうか。あたかも、数学的な標本化定理が、一旦消し去った標本点と標本点の間の値を再現するように。

 

若き日に数学的標本化定理の美しさに魅せられて、波形伝送論、情報理論の道に彷徨い込んだ私としては、何とか、社会的標本化定理を作ろうと夢想したのですが、社会や人間は、情報理論のようには一筋縄の論理では行きませんね。例えば、秘匿すべき情報もありますから、全ての情報が再現されても困ります。秘匿すべき情報と公開すべき情報の難しい仕分け(社会的デジタル化)が迫られる中で、「語り得ぬことについては沈黙せねばならない(ウィトゲンシュタイン、一寸意味が違いますね)」が、語らねばならない情報については、証拠として保存した離散的情報から、正確に内挿できるようにしておかねばなりません。

 

という訳で、公開すべき情報に限定すれば、やはり社会的標本化定理を成立させることは必要という結論になりました。お分かり難ければ、真夏の夜の迷夢ということにしておいて下さい。