第197号コラム:町村 泰貴 理事(北海道大学大学院 法学研究科 教授)
題:「ディスカバリを支える考え方」

 デジタル・フォレンジックが威力を発揮する主要な場面の一つに、電子情報を対象とするディスカバリ(eディスカバリ)がある。
 ディスカバリとは、アメリカの民事裁判でも刑事裁判でも幅広く行われる手続で、証拠開示と日本語では訳されるが、開示されるのは証拠だけではない。事実関係の照会も、また重要な事実を認めるかどうかも、応答しなければならない。証拠となる情報については、証人となる予定があってもなくても、紛争に関連する情報を知っていると見られる人は証言録取の対象となるし、関連ある文書も同様に開示の対象となる。電子情報も同様であり、さらには日々更新され廃棄もされる電子情報については、訴訟が予想される段階で保存しておかなければならなくなる。

 このようなディスカバリについて、詳しくは本研究会監修の『実践eディスカバリ』(NTT出版・2010)をご覧いただきたいが、ここで強調したいのは、このような広範な情報と証拠の開示がどうして認められるか、どうして受け入れられるのかということだ。
 日本では、少なくとも民事訴訟では、大陸法の伝統に従い、模索的証明の禁止という原則がある。すなわち、裁判を起こして証拠調べをするときは、その証拠がどのような事実を立証するのに使われるのか、予め明確にしなければならない。闇雲に証拠調べをして、あわよくば有利な事実を見つけ出そうというのは違法なのだ。

 アメリカ人の考えは全く異質なのだろうか?
 実は、アメリカでも、証拠漁りは禁止という原則がある。闇雲に訴えを提起すれば、罰金という制度すらある。実効性はなさそうだが、それでも制度として適当な訴えを提起して証拠漁りで有利な事実を見つけ出すという手法が認められているわけではない。

 それでは、どうしてディスカバリのように広汎な証拠開示があるのか?
 それは当事者が対立する構造の訴訟で、互いにフェアに戦うというアドバーサリーシステムが採用されており、手の内を互いに明らかにした上で戦う方がフェアだという考え方による。
 かつてはアメリカでも、手の内を相手方に見せるということには抵抗が強く、自らに不利な証拠は隠すのが当たり前と考えられていた。しかし、そのようにして法的な権利がない者が勝訴して権利を認められるというのは正義に反するのみならず、相手方の手の内が分からなければ闇雲な主張、ダメでも元々といった仮定的な根拠の薄い主張が乱発され、まぐれ当たりを狙うことにもなっていた。それでは、かえって訴訟は遅延し、正しい解決にも至らない。

 そこで、事前に双方当事者の手の内である証拠や情報を相手方に開示し、主張可能性を自分で評価できるようにする。自己の主張が通用するかどうか、両方の手持ち証拠や情報に照らして事前に吟味することができるので、無益な仮定的主張はする必要がなくなる。さらには、それぞれの当事者が勝てそうか負けそうか、多くの場合は予想できるようになったので、その予想を踏まえて和解により解決をすることも用意となった。今では90%以上の事件が、陪審による審理に入る前に和解で解決されている。

 このように、ディスカバリは互いに手の内を見せあってフェアに戦うという理念と、互いの証拠や情報を開示されることで事件の見極めがつき、紛争自体が解決に向かうという実益に支えられて、今日のような姿に発展してきた。
 つまりディスカバリは、闇雲な訴えを提起して証拠漁りを認める制度ではなく、闇雲な主張をさせないための制度なのである。ただし、その弊害もまた存在する。徹底した情報開示は、それ自体がコスト高となり、結局言いがかり的訴訟に道を開くことになってしまう。このあたりのバランスをどうとるのかが課題であり、バランスのとれた合理的制度であれば、日本法にも導入して良いと考えられる。

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