コラム第931号:「文系大学の中のAI・管見」

第931号コラム:町村 泰貴 理事(成城大学 法学部 教授)
題:文系大学の中のAI・管見

 生成AIは、初めて私たち一般人に知られるようになった2022年から約4年で、種類も増え、消費者も企業もそれぞれの立場から生成AIを活用するのが当たり前の世界となった。
 筆者の勤務する大学でも同様で、大学の事務・マネージメントに生成AIを活用することに大学当局は極めて熱心であり、また学生たちはスマホに搭載されて使えるようになった生成AIを、ほとんど特別の意識なく使っており、少し前までググると言われていた行動と生成AIによる「調査」とが区別されることなく日常化している。
 かつては、専門分野に関する日本語の情報を生成AIが参照していなかったようであり、特に日本法についてのデータがなく、アメリカの法事情を日本法事情としてまことしやかに綴られた回答が出てきたものである。そうすると、その回答をそのままゼミの報告などで読み上げる学生などが出てきて、ひとしきり生成AIの危険性、ハルシネーション、壁打ちの必要性とか回答の評価能力の必要性といった話になり、生成AIの賢い使い方を身につける一助となっていた。
 しかしここ1、2年は、日本法に関しても、少なくともウェブ上で参照可能な資料については生成AIの視野に入ってきたようである。すると、明らかにアメリカの法的仕組みを日本のものであるかのように回答する現象は姿を消し、典型論点そのままに関する問いであれば非の打ち所がないような回答が出てくるようになった。そうすると、学生がそれを丸ごと提出しても、減点しようもないということになる。これは学生たちの生成AIの使い方に関するスキルが向上したというよりも、生成AI自体が猛スピードで進化していることによる。間違いが減ったということは良いことのように思えるが、教育の現場では明らかに成長の機会を奪われる結果となっている。
 この他、デジタル情報となっている文献の講読は、生成AIによる要約を読んだり骨子を読んだりすることで置き換えられ、英語文献も翻訳ソフトによる翻訳から生成AIによる要約に置き換えて「読む」ことが一般的になっている。そこで終わってしまえば、読解力も低下する一方である。
 タイパのよい情報収集は必ずしも悪いことではないが、情報収集で終わってしまえば、後には残らず、結局情報収集の作業に費やした時間は無駄となるだけである。生成AIから出てきた情報を、自らのものとし、情報のさらなる深堀りを進めていくような使い方をしてはじめて、従来より進んだ学び方となりうる。
 ゼミの報告やディスカッションも、生成AIの賢い使い方としては、報告の構成を考えたり、取り上げなければならない必須論点の列挙、そして質問が出そうなポイントを出させて、これに対する準備を行うということが考えられる。これによって、報告の質の向上やディスカッションの実質化が可能となる。そのような使い方に慣れていくと、次第に生成AIを有用な道具として使える様になっていくであろう。
 以上の他、就職にも生成AIが有力な道具となりうることは言うまでもない。
 このような学生たちの利用に対して、大学教員も負けてはいない。生成AIの教育・研究への利用は様々に試みられている。国立情報学研究所の教育DX連続シンポジウムでも、最近は生成AIの教育現場における利用例が多く紹介されるようになったが、その中でも教材作り、問題作り、動画やプレゼン資料作りなどへの利用可能性から、学生の指導や自学自習、さらには学生評価のツールとしての利用まで紹介されている。
 もっとも、教員が全て、教育・研究に生成AIを用いているというわけではない。同僚や学会などで見聞きする限り、積極的に生成AIを使おうとしている教員は、むしろ少数にとどまるという方が正確なのかもしれない。この辺りは、まさに管見にすぎないが、従前の教育方法・研究方法がそれなりに完成している教員は、生成AIを用いる必要性を感じないであろうし、多忙すぎて新しい方法を試すゆとりがない場合もあるだろう。
 しかし、学生が生成AIを使って能力を伸ばしている一方で、教員が取り残される可能性もある。そもそも一般社会が生成AIを活用した構造に転換し、そのような社会に卒業生を送り出さなければならない教育機関として、文系とはいえ、座視していて良いことではないようにも思われる。

※著作権は、町村氏に属します。
※本稿は筆者の見解であり、IDFの見解を示すものではありません。