コラム第937号:「日本警察におけるデジタル・フォレンジックの草創期 ―私が見た草創期の歩み―」
第937号コラム:舟橋 信 理事(株式会社FRONTEO 取締役)
題:日本警察におけるデジタル・フォレンジックの草創期 ―私が見た草創期の歩み―
今日、デジタル・フォレンジックはサイバー犯罪捜査やインシデント対応に欠かせない技術となっている。日本警察が本格的にデジタル証拠の解析に取り組み始めたのは、コンピュータがまだ一部の企業や官公庁で利用されていた時代までさかのぼる。
1970年代後半、日本では銀行のバンキングシステムをはじめとする大型コンピュータ(メインフレーム)の導入が急速に進み、銀行員による不正送金や詐欺事件など、コンピュータを悪用した犯罪が発生するようになった。当時の捜査では、磁気ディスクや磁気テープに保存されたデータを解析し、不正の痕跡を明らかにする作業が行われていた。また、パチンコ等のゲーム機のROMに記録された違法プログラムの解析も実施されており、これらが日本警察におけるデジタル・フォレンジックの原点であった。
特に印象に残っているのは、1985年6月の無限連鎖講に係わる事件である。この事件では約17万人が被害を受け、日本警察として初めて本格的なデジタル・フォレンジックを実施した。捜索では、顧客データを記録した磁気テープやシステム設計書、業務用ソフトウェアが押収されたが、押収されたソフトウェアでは会員同士の関係を十分に解明することができなかった。そこで警察自ら分析プログラムを開発し、膨大なデータを解析することで被害の全容を解明することができた。この事件は、その後のコンピュータ犯罪捜査における証拠収集・証拠保全・解析手法のお手本となる重要な事例となった。
さらに、日本警察のデジタル・フォレンジックの転換点となったのが、1995年の地下鉄サリン事件である。このケミカルテロ事件では、オウム真理教の施設や使用車両から大量のパソコンや光磁気ディスクが押収された。当時は、電磁的記録解析を行う専門部署が設置されておらず、警察庁や管区警察局、県情報通信部の技術者が協力して解析に当たった。
当時はフォレンジックツールが整備されていなかったが、証拠保全の重要性は認識されており、ハードディスクのタイムスタンプを書き換えないよう、フロッピーディスクからパソコンを起動し、電磁的記録を外付け記録媒体へ複製し、用紙に印字して分析を行った。多くのファイルが独自の暗号アルゴリズムにより暗号化されており、解読は困難を極めたが、信者名簿やサリン製造施設の設計図など事件解明に不可欠な重要な資料を復元・解析することができた。
この事件は、日本警察のデジタル・フォレンジック体制を抜本的に見直す契機となった。専門技術者の育成、フォレンジックツールの整備、暗号解析能力の強化、そして専門部署の設置が急務であることが明確になったのである。
その結果、1996年10月には、同年4月から電磁的記録解析を所掌することとなった警察庁情報通信局情報管理課が主体となり、「コンピュータ犯罪捜査支援プロジェクト(後のハイテク犯罪捜査支援プロジェクト)」を発足させた。1999年4月には電磁的記録解析を専門に担当する技術対策課(後の情報技術解析課)が警察庁情報通信局に設置された。現在は、警察庁サイバー警察局情報技術解析課として活動している。日本警察のデジタル・フォレンジック体制は、この時期に基礎が築かれたと言ってよい。
地下鉄サリン事件の翌年4月、大分県所在のISPのシステムが、海外から侵入され、会員約2,000人分のID及びパスワード消去され、更に、ホームページが書き換えられるというサイバー犯罪が発生した。
この事件では、警察庁と九州管区警察局から技術者を派遣し、デジタル・フォレンジック調査の支援に当たった。
地下鉄サリン事件及びこの事件の経験を経て、パソコン及びサーバーに対するデジタル・フォレンジック手法の標準化を図ることの重要性が改めて認識され、1998年に、情報管理課の優秀な職員により、マニュアルの初版本がまとめられた。
日本警察におけるデジタル・フォレンジックの発展は、大規模事件への対応を通じて築き上げられてきた歴史そのものである。限られた設備と経験しかないなかで、試行錯誤を重ね、証拠を保全し、解析手法を確立していった。その積み重ねは、現在の高度なデジタル・フォレンジック技術やサイバー犯罪対策の基礎となっている。
デジタル技術は急速に進歩している。クラウド、IoT、生成AIなど新たな技術を悪用した犯罪への対応が求められる。しかし、どれほど技術が進化しても、「証拠を保全し、解析を行い、客観的事実を科学的に解明する」というデジタル・フォレンジックの基本理念は変わらない。草創期に培われた経験と教訓は、貴重な財産であると思う。
著作権は、舟橋氏に属します。
※本稿は筆者の見解であり、IDFの見解を示すものではありません。

